吸血鬼のオーベルシュタインとフェルナーの話
その3

 どこか、フワフワとした……夢の中のような心持ちのまま、フェルナーは目覚めた。気分は悪くない。しかし、両手も両足も、重りをつけられているかのようで、容易に動かせないことに気づいた。拘束は、特にされていない。
 昨晩の出来事が徐々に頭に蘇ってくる。身体はサッパリとしていて、昨日自分で着たものとは違うナイトガウンを身につけていることに気づいた。あの後、閣下が綺麗にしてくださったのだろうか。
 部屋を見渡してみると、オーベルシュタイン邸の客室の天蓋付きベッドに寝ているらしいことに気づいた。あれから、どの位時間が経ったのだろう。部屋の窓のカーテンが閉め切られていて、外の様子はわからない。しかし、カーテンの隙間から日光が差し込んでいることは分かった。
 目覚めて間もなく、「コンコン、コンコン」と扉が鳴るのを聞いた。「はい」と答えたフェルナーの声は、昨晩の出来事でひどく掠れてしまったようで、ほとんど声にならなかった。
 フェルナーの返事があった後、扉が開き、清潔な白い絹のシャツを着て、焦げ茶色のスラックスを履いたオーベルシュタインが給仕ワゴンを押して入ってきた。ワゴンの上には、水差し・コップ・ラーベナルト殿の手製と思われるリゾット・卵焼き・サラダなどの朝食が用意されていた。

「目が覚めたか。もうすぐ正午になるぞ」
「…ケホッ、ええ、なんとか…なんとも、油断しておりました。まさか、あそこまで刺激が強いとは、予想できませんでしたよ…」
「軽々しく吸血鬼に血を吸われたいなどと言うからだ」
「まったくですね。…以後、気を付けることといたします」
「…私の方も、少しで済ませるつもりだったのだが、数百年ぶりかの生き血を口にして、卿への配慮を忘れてしまった。やりすぎて、すまなかったな」

 そう言うと、オーベルシュタインはフェルナーの朝食がのったワゴンをベッドの横まで移動し、グラスに水を注いでフェルナーに手渡そうとした。しかし、フェルナーの腕はまだ上手く動かず、オーベルシュタインの手のグラスへと僅かに浮上したものの、パタリと力なくシーツの上に落ちてしまった。

「申し訳ありません、閣下。まだ手足が、うまく…」
「いや、当然だ。…ほら」

 そう言うと、オーベルシュタインはフェルナーの上半身を起こしてやり、枕を背の後ろに立てて彼を支えてやった。それから、水の入ったグラスを彼の口元まで運び、飲むスピードに合わせ、慎重に傾けて中の液体を注いだ。
 口の中に水が流れ込むのを感じると、フェルナーは、急激に、『喉が渇いて仕方ない』と感じ始め、注がれる水を夢中で飲んだ。続けて、2杯目もオーベルシュタイン閣下の御手から頂戴して飲み干した。
 フェルナーがひとしきり水を飲み終えると、オーベルシュタインはワゴンからスプーンを取り上げ、器からリゾットを掬ってフェルナーの口元に運んだ。『まるで母親の看護でも受けているようだ』と感じつつも、『あの軍務尚書にこれほど甲斐甲斐しく世話をしてもらえるとは、この世の誰にも滅多にできない稀有な経験だ』とも感じられ、特に口を挟まず、フェルナーは彼が差し出すものを次々に食べ、飲み下した。
 やがて、フェルナーがオーベルシュタインの持ってきた食事をすべて平らげると、オーベルシュタインは次のように言ってきた。

「今、卿の身体は急激な血量低下に対応するため、造血に全力を注いでいることだろう。必要そうであれば今晩も泊めてやるから、しっかり水分と食事をとり、よく休むように」
「それはそれは…ご厚意に感謝いたします、閣下」
「もう二度と私に『血を吸え』などと頼むな」
「…肝に銘じておきます」
「よろしい。部屋が暗いだろう。今、カーテンを開けてやる」

 そう言うと、オーベルシュタインは客室の窓まで歩み寄り、カーテンを両側へ向かってサッと開いた。昼間の明るい日差しが流れ込み、客室を明るく包み込んだ。光に照らされたオーベルシュタインが、フェルナーの方へ振り返る。
 
 半白の頭髪。少ししかめた眉。時折、奇妙に光る義眼。そこにいたのは、間違いなくあの軍務尚書であったが、到底彼の知る軍務尚書とは思えない人物だった。
 
 平時であれば血の気の失せた、青白い色味だった肌は、生気に輝くように赤みを増し、色は白いままだが健康的で艶やかな質感に変化している。いつもは薄く、ゲッソリやつれた印象を見る者に抱かせていた頬も少々膨らみ、不健康に尖っていた輪郭が美しい曲線に変わっている。眼窩に収まっているものが義眼であることには変わりないものの、目元の形や動きのせいか、その目は生気に満ちた輝きを放っているように思われた。世辞の定形のような表現だが、年まで十歳ばかり若返っているかのようである。
 実に貴族らしい威厳ある佇まいの、絶世の美形と言って不足のない、背筋をスッと伸ばした、眉目秀麗・長身痩躯の男性が、昼間の明るい日の光に照らされて其処に立っていた。
 今の軍務尚書の前では、あの金銀妖瞳ヘテロクロミアの美男子・ロイエンタール元帥が霞んで見えることだろう。神の最高傑作のような比類なき美貌を持つ皇帝カイザーラインハルト相手ですら、今なら張り合えるかもしれない。ただし、神や光・天使といった印象を与える皇帝カイザーと異なり、軍務尚書は、いかなる人間をも魅了し堕落させる悪魔のような印象を与えた。

「……かっか?」
「なんだ、フェルナー」
「閣下ですよね」
「そうだが」
「とんでもなくイケメンになっておいでのようなのですが」
「何を急に…おそらく、生き血を飲んだせいだろう。常であれば、少量の輸血パックしか摂らぬから」
「いつもは栄養失調状態、ということですか」
「そうなるな」

「はぁ…」と納得したとも、単に溜息をついたともつかない反応を示しながら、フェルナーは光の中の軍務尚書をまじまじと見つめた。

 これが、吸血鬼か。