吸血鬼のオーベルシュタインとフェルナーの話
その4

 結局、フェルナーはその週末一杯をオーベルシュタイン邸で過ごし、翌週明けは軍務尚書と共に黒塗りの送迎車に乗って出仕することとなった。あの出来事の直後はほとんど動けない状態であったフェルナーは、2日間たっぷりご馳走になり、よく眠って、どうにか働けそうな程度には回復していた。
『軍務尚書の美貌は、どうやら吸血鬼の毒にやられた自分にしか見えない幻覚というわけではないらしい』ということが省内の職員たちの様子から見て取れた。男性も女性も、軍務尚書とすれ違うと、直後に振り返って彼をまじまじと見つめた。女性の方からは、「尚書閣下って、こんなに美形でいらしたかしら?」「なんだか、今日はひどくキラキラしていらっしゃる」などと小声で話す声も聞こえてきた。
 すれ違う職員たちの驚愕の視線を浴びながら、軍務尚書について執務室まで同行し、今日の予定を確認する。済んだら、軍務省調査局室の自分の机に向かう。そして、席に着いている調査局員たちに「おはよう」と挨拶の言葉をかけ、自身の席に着こうとした。

 すると、近くに座っている局員が奇異なものを見るように自分を見ていることにフェルナーは気づいた。

「ん?どうした?」
「局長、大丈夫ですか?」
「え?」
「顔色がお悪いですよ」
「…なんだか、急激にやつれたように見えます」
「尚書閣下にしぼられたのですか」

「そんなことはない」と答えようとして、『そういえば文字通り生き血を搾り取られたと言えるのかな』と同時に考え、『いやそういう意味じゃない』と頭の中で自身に反論し、結果としては咄嗟に上手い反応を返せず、フェルナーは曖昧に笑って肩をすくめて見せた。
 なるほど。閣下の絶世の美貌の代償は、自分の命の欠片というわけか。

「…大したことはない。さ、今日もしっかり働こう」

 その答えを聞き、局員たちは一抹の不安を覚えたような顔を見せた。だが、それ以上は調査局長に追求せず、各々の業務に取り掛かることにした。

 あの夢のような出来事から、1か月。
 フェルナーはだいぶ体調を回復させ、妙に失っていた気力も取り戻し、以前同様に残業もできるようになっていた。一方、フェルナーの回復と入れ替わるかのように、軍務尚書の突然降って沸いたような美貌は徐々に陰りを見せていった。今では以前同様の姿──青白くて血の気の乏しい陰気な軍務尚書の姿に戻りつつある。
 ひと月ほど前のアレは、一体何だったのか? 職員たちの間で、ちょっとした噂になっていた。フェルナーは、『これでは誰かが“軍務尚書は人間ではない”と看破し始めるのも時間の問題かもしれないな…』と心配になった。何か、『珍しい食べ物を食べたお陰で精がついたのだが、滅多に手に入らないものだから今は食べなくなったのだ』とでも言おうか。ダメだ、怪しすぎる。
 それに、問題はそれだけではなかった。

 仕事を一段落つけ、ふ、と物思いに耽ったとき。エレベーターで移動しているとき。軍務尚書への確認事項を抱え、閣下のお時間が空くのを待っているとき。首元を突き破る牙の感触が、血を飲まれる代わりに注がれる毒の感覚が、あの──快楽の記憶が、フェルナーの意識を蝕みつつあった。
 無意識に、手を軍務尚書に噛まれた場所へとやる。そこには、虫刺されに似た4つの腫れがあったのだが、今では僅かな痣が残るのみとなっている。
 欲しい。あの…感覚を、味わいたい。もう一度、閣下に噛んでもらいたい。そんな思いが頭の中で強くなっていくのを感じる。『まずい』とフェルナーは思った。
 
『吸血鬼は、獲物を大人しくさせ、なおかつ血を飲み尽くすまでの期間、従属させることのできる麻酔のような毒を出せる』
 
 これが、話に聞いていた『依存性のある毒』の効果に違いない。その事を、閣下の口から聞いていたのに。わかっているのに、渇くような強い欲求を感じてならなかった。

 ある時、フェルナーは軍務尚書と共に、軍務省地下の資料室へ向かった。ここには軍の極秘の情報が格納されており、一定以上の階級の者でなければ入ることを許されない。2人はここで、業務に必要な情報を手分けして探しに来たのである。
 資料室の扉が閉まり、電子ロックがかかる。相当の時間がかからない限り、他に誰かが此処へ来ることはないだろう。さらに此処は、極秘情報に関する会話ができるよう、防音になっている。それに勿論、情報漏えい防止のため、監視カメラもない部屋だった。
 軍務尚書は、すぐに情報閲覧端末の前に座り、端末を起動して情報を探しにかかった。しかし、彼の部下は、扉のすぐ前に突っ立ったまま、動く気配がない。『どうしたのか』と軍務尚書は眉をひそめて部下の方に振り返った。
 『何かがまずい』ということを軍務尚書は一見して感じた。彼の部下・フェルナー准将の翡翠色の虹彩の目が、自分を真っ直ぐに見つめ返している。その目に宿る光は、どこか虚ろで、そして狂気を孕んでいる印象を与えた。

「フェルナー?」
「閣下……」

 少し上擦ったような、かすれた声でフェルナーが返答した。これは…。
 フェルナーが目を伏せ、片手を自分の首元へやった。ひと月前、自分が噛んだ所と同じ場所。やがて、彼の部下は目を上げ、軍務尚書をもう一度見つめ返した。

「…お腹はすいておりませんか?」

 そう言うと、フェルナーは、ニコリと、諦めたような微笑を浮かべた。常は平静な軍務尚書が微かに目を見開き、血の気に乏しい顔色を更に青ざめさせた。

「駄目だ。言ったはずだぞ。二度と、私に『血を吸え』などと言うなと」
「ええ、ええ、分かっております。分かっているのです。ですが、駄目なのです。あの感覚が忘れられない。あの感覚が欲しくて、渇くように苦しくて仕方ないのです。…もう、耐えられそうに、ありません…閣下」

 そう逼迫した様子で告げると、フェルナーの目からポロポロと涙が溢れてきた。オーベルシュタインは返答に窮し、部下の方に体を向けたまま目をパチパチと瞬かせ、下方に伏せた。
 軍務尚書が応える様子を見せずにいると、フェルナーは、腰に手をやり、軍用のナイフを抜いた。それを見たオーベルシュタインは、バッと立ち上がり、自身の腰にあるフェイザーに手をかけた。何をするつもりだ?
 フェルナーは、ナイフをゆっくりと持ち上げ、その刃を、自身の首側面に当てた。意図を察したオーベルシュタインは、「よせ」と声をあげたが、刃は、フェルナーの首筋を無情にも滑ってゆき、彼の皮膚を裂いていった。ナイフが離れると、その跡から赤い液体の塊がどんどん溢れ出してきた。
 ドクドクと、フェルナーの鮮血が溢れていき、彼の軍服が血に塗れていく。黒地の軍服では、赤い血が滲んでいても容易には判別がつかない。今は、そのような実用性を確認している場合ではないのだが。
 自身を切り裂き、ナイフを下ろしたフェルナーが口を開いた。

「…閣下、…小官の、血は、どうです? …おいしそう、ですか?」

 途切れ途切れに、彼は、ひと月前に挑発的に放った台詞を繰り返した。新鮮な生き血の匂いが、部屋全体を覆うのをオーベルシュタインは感じた。
 フェルナーは、目の前の軍務尚書の両目が紅い光に閃くのを見た。その光は、義眼のエラー光ではなかった。