吸血鬼のオーベルシュタインとフェルナーの話
その5

 その日の朝、ひとり出省してきたフェルナー官房長の姿を見た軍務省の職員たちは、一様に驚き、目を見張り、息を呑んだ。一体、彼はどうしたのだ?
 ゆらゆらと体軸を揺らしつつ、歩くだけでやっとという様子で出省してきたフェルナーは、周囲の職員の様子に気づかぬ様子で自身の職場へと歩みを進めていた。途中、軍務尚書の正体に気づくキッカケを作った、あの鏡のある通路を通る。
 チラリと目を向けた其の鏡に、無視できない程の大きな違和感を覚えて立ち止まった。
 
 軍務尚書が映っていない。それは当然だ。今、実際この通路に居ないのだから。違和感の原因は軍務尚書ではなく、自分自身の姿だった。
 整える余裕を失くし、グシャグシャのまま放置された白銀の髪。落ち窪んだように光を失った翡翠色の瞳。クリーニングに出すことを横着してしまい、薄汚れた帝国軍服。力無く弱った身体。軍服の襟の上から覗く首には、痛々しく、白い包帯が巻きつけられている。それは、到底自分の姿とは思えないものだった。

 トート

 そんな単語が鏡の中の自分の姿と重なり、浮かんでいるように思われた。フェルナーは、自分の首元や、肩の上を軍服越しに手でさすり、自嘲気味に笑った。あれから、閣下に噛まれた跡が随分と増えていた。
 軍務尚書は、自分を死なせないよう、最大限の手を尽くしてくれていた。自分は吸血鬼の毒に狂い、何度も彼に噛むよう迫ったが、彼は血を摂り過ぎないよう注意しつつ牙から毒を注ぎ、中毒症状だけを抑えられるよう尽力してくれていた。
 しかし、そろそろ限界なのかもしれない。そう、鏡を見ながらフェルナーは考えた。
 これが、好奇心の対価か。それとも──
 考えが止まらなくなるのを感じ、フェルナーは頭を振り、気持ちを切り替えることにした。軍務尚書は対策を調べてくれている。自分が先に諦めては、閣下に失礼というものだ。さあ、今日も仕事をしなくては。
 そう考え、鏡から目線を逸らし、フェルナーは自分のオフィスへ歩みを進め始めた。

 その瞬間、世界が突然グニャリと歪んだように思えた。床がせり上がってきて、自分を飲み込む──

 そして、真っ暗になった。

──────────

 ふと気づくと、フェルナーの目と鼻の先に壁があった。いや、壁ではない。天井だ。自分は、仰向けになって横たわっている。間近に、天井があった。
 周りを見渡してみると、自分は狭い空間の中に居ることがわかった。明かりらしいものは見えないのに、ほんのり明るく、周囲がハッキリ見て取れる。ブルーライトか何かが隠し置かれているのだろうか。タンク・ベッドの内部によく似ているが、それよりも狭く、何より塩水で満たされていない。代わりに、内側に固いクッションが敷き詰められた、狭い空間である。
 よく見ると、自分の着ているものが、自分の記憶と違っていることに気づいた。帝国軍服には違いないのだが、これは……正装だ。普段はクローゼットの奥深くに箱に入れてしまいこんでいる、ささやかな勲章までもが胸にキッチリ並べて装着されている。さらに、萎れかけた生花が、いくつも、自分の身体に被せるように置かれていることに気がついた。

 これは、棺だ。自分は、棺の中にいるのだ。

 おそるべき事実に気づいたフェルナーは、恐怖に駆られて衝動的に両手を突き上げ、棺の蓋を内側から力いっぱい突き飛ばした。すると、意外にも蓋はあっさりと開き、蝶番に支えられて横に退いた。フェルナーの眼前に棺の外の世界がパッと広がる。
 自分が未だ地中深くに埋葬されていなかったことに安堵しつつ、棺の上で上半身を起こし、フェルナーは辺りを見回した。そこは、ダンボールの箱や、何かしらの荷物が無造作に置かれた、窓のない──地下倉庫か何か、らしかった。少なくとも、埋葬前の遺体を置いておく遺体安置所、ではない。何者かが、自分の棺と、その中に居た自分とを此処へ運び込んだらしい。
 きらびやかな正装の軍服を身にまとったまま、フェルナーはゆっくりと棺から両脚を下ろし、その地下倉庫の床に足を着け、立ち上がった。この地下倉庫の中でも、棺の中と同様、明かりらしいものは見当たらないにも関わらず、なぜだか周囲がハッキリと見て取れる。
『世界が、自分の知っていたものと随分違っている』という印象をフェルナーは受けた。何かがおかしい。自分は、夢を見ているのだろうか? それとも、ここは死後の世界なのか? 後者だとすると、味気ないにも程がある。というよりも、現世感がありすぎる。

 何はともあれ、情報収集しよう。そうフェルナーは考え、とりあえず近くにあったダンボールの中身を覗いた。中には、朽ちかけた…今では珍しい、骨董品めいて色あせた紙製の本が入っていた。美しい絵の表紙のついた、立派な装丁の本だ。題名は…帝国標準語に近い言語だが、よく読み取れない。これは、古典語ではないだろうか。
 ペラリ、ペラリとページを破かぬよう注意しながら中の文章を見てみた。やはり、帝国標準語に似てはいるが、文意は読みとれない。最後のページを開いてみる。

 A.D. 2016……。

 西暦アンノー・ドミニー

 約1600年前、人類が地球の上と、その実験的な衛星ステーション程度とにしか暮らしていなかった頃に出版された書物。とんでもない骨董品ではないか。こんなもの、どうやって保管していたのだろう。それも、このような無造作なしまい方をして。

 その時、何処からか足音が聞こえてきた。フェルナーは開いていた書物をパタンと閉じ、ダンボールの中へ戻した。足音のする方向へと近づいてみると、扉があった。足音が、扉の前に辿り着く。ガチャガチャと金属音が響き、この扉は古風な金属錠で外側から施錠されていたらしいことがわかった。やがて、金属音が止むと、ギイイと音を立てて扉が開いた。
 軍務尚書オーベルシュタイン元帥の姿が、扉の外にあった。フェルナーは、無意識に身構えていた両手を下ろし、ようやく見知ったものに出会えて、緊張が解れたように感じた。

「目が覚めたか、フェルナー…中将」

 中将? 軍務尚書が、自分の階級を間違えるはずがない。
 ……どうやら、准将から二階級特進したということらしい。やはり、自分は死んだのだ。

「残念だったな、というべきか…それとも、おめでとう、というべきか…」

 謎掛けのようなオーベルシュタインの台詞に、フェルナーは首を傾げた。

「もう察しはついていると思うが、卿は死んだ。出省直後、軍務省内の通路で昏倒し、そのまま死亡した。死因は、原因不明の全身に及ぶ身体機能不全とされている。実際には、大量出血による身体機能不全だが、そのような大きな外傷や内出血の跡がないゆえ、医者にはわからなかった。表向きは、私が卿の不調に気づかず、無為に死なせた…という風に思わせている。
 卿の葬式には、大勢の人間が訪れ、悲しんでくれたぞ。軍務省の者たちは勿論、家族や親類、同窓生や旧友、それに…過去の女たちか? 彼女たちは。少し、剣呑な雰囲気にもなったが…ともあれ、大勢の人間が卿を悼んでいた。私も、それなりの弔事を考えて述べた。卿には聞こえなかっただろうから、聞きたければ今一度伝えてやってもいい。他の参加者の様子から察するに、なかなか悪くない出来だったようだ。そして…」

 そこで、オーベルシュタインはしばらく間をおいた。やがて、言葉を続けた。

「…卿には、吸血鬼ヴァンピーアになる体質が備わっていたようだ。吸血鬼として目覚めたのだ」

 その言葉にフェルナーは目を見開き、声をあげようとした。…が、自分の喉から声が出てこないことに気づいた。その様子を見て、オーベルシュタインは更に続けた。

「声が出ないだろう。息をしていないからだ」

 そう指摘され、ハッとしたフェルナーは自分の呼吸に意識を向けた。──先程から、ずっと呼吸をしていないままであったことに気づく。試しに、胸の動きに意識を集中し、深呼吸を試みる。すう、と自分の口から空気を取り込み、肺を膨らませ、そして吐く。それを何度か繰り返し、リズムを作ってから、試しに「アー」と声をあげてみる。声が出た。

「…か、っか…」

 ようやく言葉を紡いだフェルナーを見て頷き、「上手だ」と柄にもなく優しい言葉をオーベルシュタインはかけてきた。まるで、初めて歩いた赤ん坊を褒めるかのように。

「ここは、私の家の地下室だ。もしも、卿が吸血鬼として目覚め、何も分からぬまま、地中深くで再び飢え死ぬのを待つことになっては、酷だと思ってな。念のため、ダミーの棺と差し替え、卿をここへ運び込んでおいた。
 だが、吸血鬼として生き続けることを卿に強いるわけではない。この先、人ならざる者として、日に怯え、人間たちに狩られぬよう逃げ惑いながら、人間を餌とする…そういう生活をせねばならぬことになるからな。完全に死を迎え、あらためて墓の下へ行くか、それとも、吸血鬼としての人生を歩むか。それは、卿の意思で決定せよ。
 死を望むのであれば、なるべく楽に死なせてやる。そして、吸血鬼としての人生を望むなら…そうだな。私が、手伝ってやってもいい。卿に必要なだけ、吸血鬼としての生き方を教えてやろう。
 どうする、フェルナー」

 そこまで述べると、オーベルシュタインは…真吸血鬼ワー・ヴァンピーアは、フェルナーの返答を待って彼の目を見つめた。その両目には、人間の目の光でも義眼の機械光でもない、紅い光が宿っていた。

 やがて、フェルナーは口を開いた。

「では、この世の終わりまで、未来永劫閣下のお傍に」

 そう言うと、フェルナーはオーベルシュタインの近くまで寄り、その場に跪いた。彼の片手をとり、その手の甲に口付ける。
 フェルナーの返答を聞き、オーベルシュタインは少し驚いたかのように、両目を少々見開いた。そして、フッと僅かに微笑を浮かべ、彼の決断に応える言葉を紡ぐ。

「……日の光ひとつ耐えられぬ、成り立ての、只の吸血鬼の分際で、この世の終わりまで灰にならぬつもりだとは…豪胆なことだ。実に、卿らしい。よかろう。それでは、卿が灰になるまで…あるいは、この世の終わりが来るか、私が灰になるまで、卿に私の庇護を与えよう」
「…吸血鬼式の、結婚ですか」
「結婚とは、少し違うな。…眷属を作るとは、吸血鬼にとって唯一の繁殖方法だ。眷属とは、子供でもある。それは、仲間を増やすことになり、人間たちに対抗する力を強めることにもなるが、同時に食の確保を難しくもし、逆に人間たちに狩られる危険性を高めることにもなる。そのため、まともな吸血鬼であれば、眷属を多く作らない。過去にそのような真似をした吸血鬼は、例外なく、眷属諸共、人間たちに狩られ、心臓に杭を打たれ、あるいは日の光の元に晒され、灰になった。
 私の場合は、余程でなければ人を吸血鬼に変えぬし、変えた以上は管理下に置く。安全を期すため、いちどきに1人より多くは作らない。
 さらには、眷属となった人間には、それまでの人生すべてを捨て、身を捧げて貰わねばならない。日中出歩けないのは勿論だが、一度死んだはずの人間が、葬式まで済ませているのに動いているとばれれば…ましてや戻りでもしては騒ぎになる。卿には、卿を知るすべての人間が居なくなるまで、隠れ住んで貰わねばならない。
 吸血鬼と、眷属の関係とは…特に、私の場合では、親と子供であり、配偶者であり、同時に唯一の友人、ということになる」
「…それほどの特別な存在にするほど、閣下にとって小官は『余程』だったのですか」
「卿の人生すべてを奪うことには、躊躇いがあった。だから、何度も言ったのだ。私に『血を吸え』などと頼むなと。…後悔は、していないか」
「………いいえ。そうですね、この先もしも後悔することがあれば…その時は、昼日中ひるひなかに出歩いて、日光浴することといたしましょうか。
 なので、後悔させないで下さいね、閣下。小官が居なくなっては、お寂しいでしょう?」
「……微力を尽くそう」
「契約成立ですね」
「うむ」
「誓いのキスはなさいますか?」
「…望むなら」

 フェルナーは、跪いた姿勢からゆっくりと立ち上がると、オーベルシュタインの首に両手を回し、彼の唇に自身の唇を合わせた。オーベルシュタインは、死に化粧師の手によって美しく銀髪を整えられ、正装の軍服で華やかに着飾ったフェルナー中将の身体を、両腕で包み込んだ。
 ふと、フェルナーの脳裏に、何時だったか参列した、ある部下の結婚式の情景が浮かぶ。花嫁を迎えた彼の服装は、葬式を迎えた自分の今の姿と同様、正装の帝国軍服であった。花嫁は白いドレスを着て式に臨み、死んだ婦人は白いドレスを着て葬られる。…人は何故、婚礼と葬式に同じ衣装を使うのだろう。

『人ならざる者に娶られる為、かもしれない。丁度、今の自分のように』

 これといって確証があった訳ではないが、そんな推論がフェルナーの脳裏に浮かんだ。
 数秒、唇を合わせたのち、オーベルシュタインはフェルナーから顔を離し、至近距離から彼の目を見つめて言った。

「言いそびれていたが、卿の血はすこぶる美味かった」

 人間ならば『おぞましい』としか言いようのない感想を聞き、フェルナーはニヤリと不敵な笑みを浮かべて返して見せた。ふたたび、彼がこののち未来永劫の時を共に過ごすはずの、人ならざる配偶者に口付け、今度はより深く彼を味わう。

 ここに、新たに1人の吸血鬼が誕生し、1組の眷属の契約が成立した。