吸血鬼のオーベルシュタインとフェルナーの話
その7

 心地のよい柔らかな闇の中に包まれて深く沈みこみ、眠っていた意識が徐々に浮上するのを感じながら、フェルナーはゆっくりと目を見開いた。辺りを見回してみると、タンク・ベッドのような狭い空間の中にいることがわかった。体はサッパリとしていて、彼の見覚えがない寝間着をまとっている。前にも、こんなことがあった気がする。

 フェルナーの脳裏に段々と記憶が蘇ってきた。そうだ。自分は死んで、吸血鬼になったのだ。そして、オーベルシュタイン閣下──実際には、違う名前だそうだが──ともかく、その彼の側に、未来永劫在ることを誓ったのだ。人にも自分にも冷に徹する、病的なほど職務に忠実で、歪んでいるようで真っ直ぐな、あの上官に、自分の忠誠心を捧げることを誓ったのだ。結果的には、自分のすべてと一緒に。

 ここは多分、オーベルシュタイン邸の地下倉庫にある自分の棺の中だろう。あの後、例によってあの軍務尚書が自分を綺麗にして、寝間着まで自分の為に用意し、自分に着せつけ、もとの棺に寝かせ、蓋を閉じておいてくれたのだろうか。こう言ってはなんだが、彼にはなかなか、仕事のみならず人の世話を焼くにも偏執的な面がある、とフェルナーは感じた。
 今は、何日の何時頃だろうか? 辺りの様子や時間を確認しようと、フェルナーは棺の蓋をゆっくりと押し上げ、身を起こして棺の外を見た。

「………!!?」

 我が目を疑った。

 自分の棺が置かれた、地下倉庫の内装が様変わりしている。雑然と並んでいた無機質な金属ラックも、その上に並んでいた箱も、あの骨董品の紙製の本が入っていたダンボール箱も、一切が姿を消していた。
 剥き出しの石壁だった壁には、柔らかく淡い色合いの壁紙が隙間なく几帳面に貼りつけられていた。その上に、ほんのりと明かりを投げかける、蝋燭立て型の壁面ランプが取り付けられている。窓がない代わりにか、牧歌的な風景を描いた絵画まで掛けられていた。
 土壁に裸の電球が下がっていた天井にも、居室に相応しい壁紙が新たに貼りつけられている。無骨な電球は取り払わられ、代わりに花の形のランプ・シェードが幾つか並んだ形の照明が吊り下げられていた。裸の電球の刺さるような光とは異なり、その花から漏れる光は、部屋に淡いヴェールを投げかけるように優しい。白地の味気ない塗り床だった床には、暗い赤色の重厚な絨毯が敷かれていた。
 そして、部屋の中には、ローチェスト・クローゼット・テーブル・肘掛け椅子・端末装置が載ったサイドテーブル・小型冷蔵庫・グラスが並んだ小さい食器棚・TVディスプレイなど──人間1人、いや、正確には吸血鬼1人が快適に過ごすために必要と思われる、ありとあらゆるものが揃えられていた。
 ローチェストの上には、小さなレースのテーブルセンターが敷かれており、その上に見頃の美しい赤い薔薇の花がたっぷり入った花瓶が置かれている。その横には、几帳面に折り畳まれた自分の死に装束──棺の上で再び意識を失う前、自分が無造作に床に脱ぎ捨てた、あの正装の軍服があった。

『棺ごと違う部屋に移動されたのだろうか』とも一瞬思ったが、あまり必要性が感じられないし、最初に自分の棺が地下倉庫に在った以上、吸血鬼に転じた自分が安全に日光を避けられる部屋が他にあったとは考えにくい。部屋の広さ、扉の位置や形を見ると、それらについては記憶の中の地下倉庫と、目の前の窓のない居室は一致していた。

 翡翠の目をパチパチと瞬かせながら、ゆっくりと両脚を棺から下ろし、フェルナーは赤い絨毯の上に降り立った。足下を見ると、スリッパが用意されていたので履いておく。
 みずみずしい薔薇の花を載せたローチェストに近づいてみると、ふわりと良い香りが漂った。チェストの引き出しを開けると、中には、几帳面に折り畳まれ並べられた、男物の新品の下着や部屋着・替えの寝間着などが置かれていた。
 次に、クローゼットの扉を開けてみる。中には、タグ付きの新品の服がいくつか下がっていた。何となくだが、あの軍務尚書が好みそうなデザインの私服だ。しかし、これらは恐らく、自分のために用意されたものだろう、とフェルナーは直感していた。
 肘掛け椅子にフェルナーはドサリと身を預けた。ふかふかのクッションが心地よく彼を包む。

「………これは、これは。閣下…」

 グルリと劇的な大改装を遂げた元・地下倉庫を見回し、最後に天井を仰ぎ、フェルナーはふたたび目を瞬かせた。

 間違いない。彼はとんでもなく偏執的だ。

「………こんなに本気をお出しになって。軍務尚書としてのお仕事は、大丈夫なんですかね」

 もう死んだ身だというのに、そんなことが心配になった。

──────────

「実は、少し休んでいた」
「何ですと。それはまた大事件ですね。後年、何かしらの大層な名前をつけられ、銀河の歴史の1ページに刻まれるやもしれません」
「この程度の下らぬ出来事を記録する輩が居るとは思えぬが」

 日が沈んだ後、帰宅したオーベルシュタインはフェルナーとテーブルを挟み、血液の入ったワイングラスに口をつけながら彼の軽口に答えた。

「卿が吸血鬼になるにしろ、ならないにしろ、それなりに準備が必要だったのでな。具合が悪いと言って、数日ばかり休んだ。側近を亡くしたばかりだし、弔事の出来も良かったようだから、不自然ではないと踏んだ。…しかし、TV電話ヴィジホンを何本も受けることになった。皇帝カイザーからもな」
「それは、そうでしょうね。大事件ですよ。閣下が体調を崩されるなどと」
「……人間は体調を崩すことのある生き物だと思っていたが?」
「それはその通りですが。それで、皇帝カイザーにはなんと?」
「あまりしつこいので、『私が死んだら執事から連絡が行きますので、どうせでしたら、その場合に備えて、代わりの軍務尚書でも選定なさっておいてください』と伝えた」
「うっわ」
「鼻白んで不要不急の連絡を止めてくださるかと期待してな。そうしたら、みるみる顔を青ざめられてしまった。どうもその後、皇帝カイザーの方がしばし、伏せってしまわれたようだ」
「うわ」
「静かにはなったが、失敗だった」
「わざとやっておいでではないですよね、閣下」
「いや。折角擁立した皇帝陛下だ、まだお倒れになられてはこまる」
「左様でございますか。ダメですよ。あの方は戦場では軍神そのものですが、そういう事に関してはメンタルが弱いのですから」
「不敬だぞ、フェルナー中将」
「小官は閣下に忠誠を誓うことに致しましたゆえ」

 オーベルシュタインが苦笑するのを見つつ、フェルナーは自分もグラスから一口、血液を飲んだ。ふと、オーベルシュタインがテーブルの中央に置かれた皿に手を伸ばし、その上に横向きに置かれた薔薇の花を1本手に取る。ラーベナルトがグラスと輸血パックを配膳するときに置いていき、フェルナーが奇妙に思っていた薔薇の皿である。
 オーベルシュタインは、その薔薇の花弁を口元に持って行くと、花のがく諸共口に入れて食べてしまった。当たり前のように咀嚼する軍務尚書を見て、フェルナーが目をパチパチと瞬かせた。

「………どうした。そんなにおかしいか」
「…花、召し上がるのですか?」
「知らないのか。吸血鬼は、花の精気を喰える。有名な話だと思っていたが」
「…これは、失礼。勉強不足でございました」
「卿も食べると良い」
「はっ。では、頂きます」

 フェルナーは薔薇の花を1本手に取り、オーベルシュタインに倣って花を丸ごと口に入れ、噛んでみた。ふわり、と優雅な薔薇の芳香が鼻を抜ける。

「……美味しい」
「気に入ったか。血に比べれば、間食程度にしかならぬが」
「もしや、部屋に置いて下さった薔薇は食用ですか」
「食べてもいい。他に必要なものがあれば言え」
「なんと気前のよい。……でしたら、結婚指輪、など頂けますか?」
「……望むなら。ただし、私は外に着けてゆけんぞ。表向き、側近を亡くしたばかりで傷心の、独身の元帥だからな」
「それだけ聞きますと、大変狙い目であるように聞こえますね」
「……そういえば、銀には触れるな。焼ける」
「あっ、銀って吸血鬼に効くんですか?…軍服の装飾は?どうなさっていたので?」
「『余分な経費の削減』という名目で、似た色の金属に差し替えた。…ある意味、これは私の職権乱用といえるかもしれん」
「なんと、いつの間に。その職権乱用は、誰もそうだと気付かぬでしょうね」
「気付かれておらぬ。…今のところはな」
「閣下を人間と思えば、閣下に何の得もないはずですしね。……そういえば、ラーベナルト殿は、我々が吸血鬼であることを知っている様子ですが。彼も吸血鬼ですか?」
「いいや。彼は、人間だ。……私が拾って育てた孤児だ」
「なんですと」

 フェルナーの脳裏に、オーベルシュタイン家に忠実に仕えている、あの老紳士の執事の姿が浮かんだ。目の前の吸血鬼は、公的には40にもなっていないし、上に見積もっても執事より年嵩の老人とは評し難い姿をしている。どう考えても執事の方が、閣下を幼少のみぎりから育ててきたようにしか見えない。まさか、逆だったとは。

「ほんの気まぐれだ。大人になったら、人間の社会に帰すつもりだった。だが、例え本物の人間であっても、素性の知れぬ者を受け入れてくれる場所は中々なくてな。結局、オーベルシュタインを名乗るようになった後の私の元で、引き続き働いてもらうことになった」
「そうだったのですか…」

 野生の動物の赤ん坊を人間が拾って育て、その後、元の野生の群れに放り込んでも戻れないことと似ている。そんな考えがフェルナーの頭に浮かんだが、執事殿に対して失礼なので口には出さなかった。

「ところで、だ。フェルナー中将」
「はい、なんでしょう閣下」
「仕事を頼みたい」
「仕事ですか。どのような?」
「軍務省の仕事だ。私が卿に関する準備で休んだ分、仕事が溜まってしまっている。この屋敷の中でできるものを割り振るので、やってもらいたい」
「なんと。小官はもう死んだというのに、また軍務省の仕事でございますか」
「卿は死んだが、中将に昇進しただけで、任は解かれておらぬ。動けるのだから働くが良い」
「……なるほど、そういう考え方もできますね。承知致しました。微力を尽くしましょう」
「うむ」

 『妙なものだ』とフェルナーは思った。自分は死んで、葬式までしてもらったというのに、世界は生前とさほど変わらない。大きく変わったことは、自分と閣下との関係、そして、自分がこの屋敷の外へそうそう出られなくなったということだけだ。

 2人は、また一口、ワイングラスの中の血液を飲んだ。

「ところで、閣下」
「なんだ」

 ニヤリ、と不敵な笑みをフェルナーは浮かべてみせた。

「今宵の伽は、ご入用ですかな?」
「……卿はまだ、吸血鬼の身に慣れていないのではないか」
「主人の献身的なサポートのお陰か、元気いっぱいですね。…不要でしたら、ひとりで棺に戻りますが?」

 フェルナーがそう言うのを聞くと、答える代わりに、オーベルシュタインはフェルナーを手招きした。招きに応じて席を立ち、テーブルを回り込み、オーベルシュタインの傍へフェルナーは身を寄せた。オーベルシュタインはフェルナーの顎にそっと手を添えると、自身の顔を彼に近づけ、彼の唇を食んだ。オーベルシュタインの首に腕を回し、椅子にかけたままの彼の腿の上に座り込みながら、次第に深くなる口付けに、フェルナーの方も彼を貪るように夢中で口付けた。至近距離からフェルナーを見つめる義眼の瞳が、人ならざる奇妙な紅い煌めきを帯び始める。
 ああ、彼がまた、吸血鬼に戻る。そんな予感を覚え、フェルナーは喜びに翡翠の目を細めた。

 オーベルシュタイン邸の夜が更けていく。