夜鷹のおいし
その5

 それは、目まぐるしい変化であった。
 まず、来晴 > らいはる]]が率いる浪縁(ろうえん)軍なる出所不明の軍が[[rb:海結家(みゆうけ)国に宣戦布告し、常勝不敗を誇る海結家はそれを受けて立った。そして、海結家軍は敗れた。会戦の結果、大将首たる海結家の首は、来晴のものとなってしまった。
 その結果、海結家国は、来晴の領土となった。あとになって海結家国の人々が知ったことだが、それは決して小さな領土ではなかった。というのも、この領土の範囲は、そう遠くない内に全土を覆い尽くし、全国制覇を達成してしまったのである。

 海結家国を制覇するにあたり、来晴にとって特に有用となった立役者が存在した。それは、未由良 > みゆら]]と美典(びてん)の若武士二名、それと商人・[[rb:楼家(ろういえ)である。先見の明ある彼らは、老いた為政者・海結家よりも若き天才・来晴のほうが優れた主君と早々に見抜き、彼に寝返って、会戦勝利の役に立ったのである。
「そなたらに報いねばならぬだろうな」
 徴収した海結家の城の最上階にて、来晴はそう言った。目の前には、ふかぶかと平伏した未由良、美典、それと楼家がいる。
「殿の家臣として今後とも尽くさせて頂けるのであれば、これ以上の誉れはございません」
 未由良は応じた。
「臣も同じく存じます。ただ一つだけ、万が一殿がお許しくださるのであれば、これ以上喜びのないものがございます」
 美典はこのように言った。
「申してみよ」来晴は寛大に応じた。
「は。……臣にどうか、海結家の側室である『おいし』をくださいませ」
 美典は厳かに応じた。来晴が首をかしげる。楼家はヒュッと息を呑み、ちらりと横目に美典を見やった。
「『おいし』……とな」来晴が尋ねる。
「は。彼の者はかつて、夜鷹として春をひさいでいた者で、臣は、彼の者を深く愛し、家に迎えるべく何度となく身請けを申し出ておりました。しかし、心優しいおいしは臣を気遣い、それを断り続けておりました。そうしている内に、彼は、海結家大名に半ば強要されて身請けされることと相成りました。……臣は一度、彼に助けを求められましたが、臣には大名に逆らう力がなく、かないませんでした。殿がもしお許しくださるのであれば、今こそ、家に親族もろとも迎え、彼が望んだ通り救いたく存じます」
 美典の説明を聞き、来晴はフウムと顎に白い指を当てて考え込んだ。
「……して、その『おいし』なる者。まことに、そなたの家に迎え入れらるることを望んでおるのか」
 来晴は懸念を隠さぬ様子でそう尋ねた。美典はきょとんとして応じる。
「臣は、そう考えておりますが……」
「当人に確認しよう」
「は。承知いたしました」美典は従順に応じた。
「して、楼家よ。そなたは何を望むか」
 来晴は、武士である二人より背後に慎ましく控えた商人に問うた。身分を問わぬ信賞必罰は、彼を支持する人々が信奉するところのひとつである。
「は。実は私め、美典殿と同じく、おいしに心を寄せる身……」
 それを聞くと、美典はジロリと彼を睨んだ。
「……私めもまた、おいしを家に迎え入れたく願っております。勿論、本人にも親族にも、不自由をさせるつもりはございません」
「ほう、そなたもか。いよいよもって、おいしとやらに真意を尋ねた方がよさそうだ」
「殿……!」美典が困ったように言う。だが、来晴は扇でそれを制した。
「二人の男が異なる主張をしている以上、やはりおいしとやらの真意を尋ねるは必須。双方、異論はなかろうな?」
 来晴がそう宣言すると、美典も楼家も深々と頭をさげ、「ははあ」と応じた。

      *

「……と、いう次第である」
 来晴が説明する。目の前には、少し間をあけて、元・海結家の愛妾であったおいしがひれ伏せていた。その身には、海結家が着せた金糸縫いの贅沢な着物をまとっている。
「私は」おいしは応じた。
「私は、何者にも縛られず生きとうございます」
「ほう。何者にも縛られず、か」
「はい。誰のものにもならず、誰にも頼らず……総菜屋などをして、老い先短いじいとばあと、つつましく暮らしていける店を持ちたいと願っております。……叶わぬ、夢でしょうが」
 おいしが顔を上げる。その顔には、自嘲的な笑みが浮かんでいた。
「海結家が殿に倒された今、私はあなたのもの。美典殿でも楼家殿でも、お好きな方へ私を与えられればよろしい。そのようなものだと、自覚はしております」
 おいしが再び頭を下げる。
 来晴は、ふん、と、不満げな溜め息をひとつついた。彼の次の言葉は、おいしにとって意外なものであった。
「いいや、お前はどちらにもやらぬ。この私のものとなるがよい」
「……は。承知いたしました。どうぞ、かわいがって……」
「お前に元手の金子と、店をもつ許可をくれてやる。お前、料理がうまいのか?」
「……? は。その。殿のお口に合うかどうかは」
「では、せいぜい町人相手に修行し、おれの口に合うように研鑽するがいい。総菜屋をさせてやる」
 それは、あまりにも意外な申し出であった。おいしは顔をあげ、目をまんまるに開き、信じがたい美貌の将軍を見つめた。
貴留(きる)
「はっ」隣に控えていた赤毛の副将が応じる。
「こいつに総菜屋をさせてやる手配を頼むぞ」
「御意」
「そういうわけだ。いいな、おいし」
 来晴が尊大に確認を問う。おいしは、しばし呆然としたのち、慌てて頭を下げた。
「……はい」

 そののち、来晴が宣言した通り、おいしは下町の通り沿いで総菜屋を営むようになった。

      *

「おいしー! おいし! いるか?」
 小さな店の軒先で、オレンジ髪の武士が叫ぶ。ほどなくして、店の名前いりの前垂れ――『総菜屋 おいし』と書かれた前垂れをつけたおいしが奥から出てきた。
「どうも、美典様」
「おう! その……今日はなんだ?」
「はい。本日は、旬の魚の煮付けをお出ししております」
「そ、そうか! じゃ、じゃあその……十人前だ。くれ」
「毎度ありがとうございます」
 おいしは、美典から鍋を受け取り、その中によく煮た魚を十切れ入れた。それを美典に渡すのと引き換えに、彼からお代を受け取る。
「……あ。それで、その……」
「おいしぃ! 居るか?」
 美典が何か言おうとすると、途端に別の声が遮った。声の主は、商人の楼家であった。
「そろそろおれに嫁ぐ覚悟はできたか?」
「……私は男ですので、嫁げませぬよ。今日は魚の煮付けです」
「うむ。では十五くれ。おれをここまで焦らすとは、まったく魔性だ」
「何度もお断りしておりますのに、楼家様は懲りませんな」
 あきれたようにおいしが言いつつ、楼家のために十五切れの煮付けを取り分けた。ちまたでも評判の色男商人を、美典は横からギギギと歯軋りしながら睨む。
「さあ、どうぞ」
「おう。お前の料理はどれも美味いな、毎日くいたいものだ」
「それは有難うございます。毎日おとどけ致しましょうか?」
「ふんっ。本当に焦らすのがうまいな」
「恐れ入ります」
 そんなこんなで、美典も楼家も追い返されてしまう。おいしが春をひさがなくなってから、そんな毎日が続いていた。

 おいしは、毎晩のように調理研究をし、その成果を商品に反映させた。お陰で、美典と楼家への売り上げや、時々「ここで食べさせてくれ」と食卓に混ざる不壊(ふえ)を別にしても、城下町での評判は上々であった。
「……これならば、来晴様も『美味しい』と言って下さるだろうか」
 料理の研鑽を深める度、おいしはそのように独り呟いていた。