目が見えないオーベルシュタインの話
その3

 業務時間の終了を告げるチャイムが鳴り響き、軍務尚書はキーボードをたたく手をふと止めた。もうそんな時間か、と思うと同時に、脳髄が燃えているかのような感覚を覚える。普段と異なり、聴力や触覚に頼って過ごしたせいで、慣れない作業をさせられた彼の脳が抗議の悲鳴をあげているのである。
 義眼に関する不具合が生じ、今回のように一時的に視力を失うことは、彼にとって珍しい出来事ではない。しかし、そうは言っても普段は光コンピューターの義眼がもたらす視覚に頼って暮らしているのだ。常人よりは慣れているとはいえ、突然、視覚以外の感覚を使ってやり過ごすことは、彼にとっても負担の大きいことなのである。
 入念な準備にも関わらず、オーベルシュタイン軍務尚書は今日、普段ならば午前中に終わらせられるような仕事をこなすだけで業務時間を過ごしてしまった。軍務尚書は強い不満を覚え、彼の執事に連絡をとって迎えを遅らせ、作業を続けようかと考えた。しかし、脳が疲弊のあまり燃えているかのような感覚を覚えて思いとどまった。
 今日はこれ以上、作業を続けられそうにない。一晩よく眠れば、明日には自分の脳も慣れない生活に適応し、もっと仕事をこなせるようになるかもしれない。そうなってから埋め合わせをしてもいいだろう。

 オーベルシュタインは自身の端末の電源を切り、機械の停止音を確認したのち、端末を机の引き出しの中へ戻した。立ち上がって椅子を戻し、立てかけておいた白杖を手に取って執務室の出口へ向かう。部屋から出て扉を後ろ手に閉めると、電子システムが自動的に扉のロックをかける音が聞こえた。
 この時間帯は、どの階もエレベーター・ホールの前に大勢の人が集まってしまう。エレベーターを利用しようとすれば、目の見えない彼は人を避けて進むことに苦労するであろうし、何より誰も彼もが盲目状態の軍務尚書に余計な気を遣って手を貸そうとするであろうことが、彼には不愉快でならなかった。
 オーベルシュタインは朝出勤してきたルートとは反対側に向かい、人気ひとけの少ない階段を使って下へ降りることにした。石の床材でつくられた階段では足音がよく響き、他人の有無がよくわかるし、おおまかな段の数や踊り場の大きさも把握している。手すりを掴んで慎重に進めば、まず問題は起きないだろう。

 ほとんど人の気配がしない通路を進み、階段があるであろう場所に進む。白杖で慎重に段差の開始位置を確認しつつ、空いた手を伸ばして手すりを探す。ほどなくして、ひんやりとした金属製の手すりが手に触れるのを確認すると、オーベルシュタインはその手すりを掴み、白杖をすっと垂直に持ち替えて慎重に階段を降り始めた。しばしば人混みを避け、階段を使う彼は、すぐに健常者のごとくトン、トン、トンとリズミカルに段差を降りられるようになった。
 降りていくうちに、わずかに熱に浮かされた意識の中で、遠く、古い記憶が彼の脳裏に呼び起される。幼い頃にも、よくこうして視界のない状態に陥った。いまだ幼い彼の高い声が、屋敷の中によく通って響く。

「兄さん!…兄さん、どこ?」

 ほどなくして、パタパタと軽やかな少年の足音が自分に向かって飛んでくるのが聞こえる。

『どうした?パウル。また、義眼の調子が悪いのか』
「そうみたい。急に、真っ暗になっちゃった」
『そうか。よし。様子を見てあげるよ。さあ、座って…』


 古い記憶の再生は、突然の落下によって中断された。


 足の下に、階段が、ない。


 階段に大きく空いた穴の上に無造作にかけられただけのビニール・シートが、軍務尚書の体重にあっさり敗北し、彼もろとも下へと落下していった。付近の壁には、『老朽化により崩落が発生。現在修復工事依頼中。危険ですので絶対に立ち入らないでください!』と大きく書かれた表示が貼り付けられている。だがその他には、通行を妨げるものは何も設置されていない。重要度指定を忘れたまま一斉送信された崩落に関する連絡は、軍務尚書へ送られる数多の連絡に埋もれ、その日、その時までに彼の耳に入らなかった。
 オーベルシュタインは咄嗟に手すりを力いっぱい握り、自身の落下を腕一本で間一髪食い止めた。ガクンと彼の体が大きく上下に揺れ、彼が思わず手放してしまった白杖は、衝撃でヒモも手首から外れて落下していった。カラン、カランカラン…と落ちた白杖が下の床を強く打って響く音が聞こえる。
 軍務尚書はぶらりと片腕でぶら下がったまま、彼には珍しい冷や汗をかきつつ、見えない目を上に向けた。彼の全体重を預けられた片腕が、きしんでいるのを感じる。彼は驚愕で激しく乱れた呼吸を整え、近くの職員に助けを求めようと声を上げかけた。その瞬間、バキンと大きな音が鳴り響き、階段と同じく老朽化していた手すりの留め具が壊れた。手すり全体が落下し、残っている階段に甲高い音を立てて激しくぶつかる。その衝撃で、手すりを掴んでいたオーベルシュタインの片手は、むなしく手すりから離れてしまった。

 ドスン!ガ、ガ、ガガガ…!

 けたたましい落下音を立てながら、軍務尚書の体が直下の階段へ激しく打ちつけられ、すぐ下の踊り場まで段差を滑り落ちていく。オーベルシュタインは、自分の体の内側からグチャリと潰れるような嫌な音が響くのを聞いた。体中がしたたかに段差や踊り場の床にぶつかり、頭も転がり落ちる途中でぶつけ、意識がとびかけるのをオーベルシュタインは感じた。

 痛い。痛い。痛い。

 何処かで止まった。自分はいまどうなっている?見えない。わからない。痛くてたまらない。骨が折れたらしい。どこだろうか。足?肋骨?自分は生きているのか?致命傷を負っているのか?

 …ここで、死ぬのか?こんな、くだらないことで…?

 音を聞きつけたらしい職員たちがバタバタと走り回り、扉が激しく開閉する音が聞こえる。自分を見つけたらしい職員が悲鳴をあげた。足音がどんどんと増えていく。軍務尚書は声をあげようとしたが、口をきくことができなかった。体を起こそうとするものの、痛みがあまりに強く、動いた感覚がない。職員たちの声が、どこか遠くから響いているような気がする。

「閣下───!」
「……だ…救急………べ、早く…ろ…」
「……西階段……落下…………」
「…………が落下………繰り返す…軍務尚書が…………」
「救護……………れ」
「…………官房長…………」
「………大丈………………聞こえ……か……」


『パウル…』


 夢か、現実か、あるいは走馬燈か。
 階段の踊り場に新しくできた血だまりの中で、自分のファースト・ネームを呼ぶ声が聞こえたのを最後に、オーベルシュタインの意識は途絶えた。