目が見えないオーベルシュタインの話
その4

 ピッ……ピッ……ピッ……

 規則的で静かな電子音がどこからか響いているのを感じながら、オーベルシュタインの意識が徐々に浮上し、彼は瞼を開いた。しかし、世界は暗闇のままである。自分は今どのような状況にあるのか、と考え始めると、彼の体が情報を集めるべく、徐々に触覚を伝え始める。どうやら、自分は今、ベッドか何かに横たわっているようだ。周りに何かないか、と考え、手で探るべく腕を動かしてみると、上手くいかない。拘束されているかのように、体中に何かが巻き付けられているのだ。

「……閣下?お気が付かれましたか?」

 軍務尚書が身じろぎし始めたことに気づき、彼の病床のそばで椅子に腰かけ、本を読んでいたフェルナー准将は声をかけた。

 不運な事故で多くの外傷を負った帝国元帥のために割り当てられた病室は、あちこちが磨きこまれた高級木材で飾られており、さながら高級ホテルの最上級スイート・ルームといった様相である。早々に紙媒体の書類仕事を終えてしまったフェルナーは、病院への電子機器持ち込みが禁止されているのをいいことに、これ幸いとばかりに高級病室備え付けのバーカウンターから高価なブランデーを頂戴し、見事な細工のグラスに澄んだ氷の塊を入れて注ぎ、サイドテーブルに置いて飲みながら優雅に軍務尚書の様子を見ていた。目の前に横たわっている彼の上司に見られれば、目覚めて第一声が叱責になることだろうが、幸いにも、現在も彼は義眼を着けていない状態のままである。

「………フェルナー…か…?」

 包帯で隠された空の眼窩をフェルナーに向け、数日前と同じ質問を軍務尚書はかすれた声で繰り返した。軍務省の業務を支える大事な軍務尚書が、ようやく眠りから覚めたらしいことを確認でき、フェルナー官房長は安堵のため息を漏らした。

「よかった。意識が戻られたのですね。このまま意識が戻らない、なんてことにでもなりましたら、ローエングラム王朝を確立するどころではございませんでしたよ。仕事が一番大変な時期に、ロクな引き継ぎもせずにドロップアウトだけは、くれぐれもなさらないでください、閣下。小官が過重労働で大変なことになってしまいます」
「……私は…どうなった。状況は…?」
「閣下は現在、軍務省からほど近い帝立病院に入院しておいでです。こちらは、最上階の高級病棟の個室、となっております。いやあ、小官は初めて入りましたが、実に綺麗で居心地がいいですね。高級ホテルの一室のようですよ。失礼、話がそれました。閣下は、老朽化により崩落して大穴のあいた階段から転落され、両足と左手の指を骨折、あばらと骨盤にヒビ、他にも打撲やら捻挫やらを全身あらゆるところに作り、ついでに頭も打って脳震盪を起こして気絶、血みどろの状態で救急搬送されました。今も閣下は義眼をお着けになれない状態ですので、見えないと思いますが、満身創痍です。包帯だらけで、ミイラみたいになっておりますよ。命に別条がなくて何よりでした。頭から落っこちていたら、まずかったかもしれません。5日ほど眠っておいででしたが、記憶はございます?」
「……そんなにか…卿はここで油を売っていて大丈夫なのか」
「おやおや。閣下の身を案じて、付きっきりで看ていた忠実な部下に対して随分な言い草ではございません?そんなことですからドライアイスだなどと呼ばれるのですよ。ドライかつアイスですよ」
「…ドライアイスは、二酸化炭素の固体のことだろう」
「存じ上げております、冗談です」
「…どうでもいいな。それより、私の看病なら、私の家の執事夫婦に任せればよかっただろう」
「ラーベナルトご夫妻はご高齢ですし、閣下のご自宅の番も要りましょう。陛下直々に、軍務省の中で一番オーベルシュタイン元帥が気を許しそうな者を看病の手伝いにあてよ、とのご尊命がございまして、小官がラーベナルト殿と交代で看ることとなりました。ご安心を。どうしても閣下でなければ処理できない仕事以外、なるべく軍務省に残っている者たちに分配して任せてまいりました。小官は閣下ほど働き者ではございませんゆえ、仕事を任せるのは大得意です」
「……早く戻らねば。私はあとどれ位で退院できる?」
「1カ月ほどだそうです、閣下」
「なんだと?」
「義眼は残り1週間強ほどでお着けになれると思いますし、お体のケガもその位には完治する見込みではございますが、頭をぶつけられた際の脳への損傷は要経過観察だそうです。目が覚めてから1カ月程度は様子をみたい、と医者が言っておりました。ちなみに、事態をお聞きになった陛下より、すべての治療が完了するまでの間、絶対に勤務してはならない、くれぐれも治療に専念せよ、との厳命が下っておりますからね」

 釘をさすように付け加えたフェルナーの言葉を聞くと、オーベルシュタインは顔を病室の天井へ向け、大きく失望に満ちた溜息を吐きだした。

「……陛下のご命令とあれば、仕方があるまい」
「そうですね。いやあ、全く運が悪うございましたね。週末に崩落が起きて、その次の週明けちょうどに閣下が義眼をお着けになれなくなっていて、しかも安全衛生防災課の不手際で通行止めテープやロープの設置がされていないわ、崩落の連絡に重要フラグはついていないわ。今、安全衛生防災課は、陛下から直々のお叱りを叩きつけられて、対策方針の取りまとめにてんやわんやしておりますよ」
「…1か月後、私が戻るまでに、対策方針が私の署名を残すのみの状態で待っていると考えてかまわないな。期待している、と伝えておいてくれ」
「承知しました」

 こりゃ、安全衛生防災課は1カ月集中合宿決定だな…とフェルナーは考え、やや同情をにじませて苦笑した。とはいえ、いくつも不手際を起こし、軍務尚書を危うく死なせかけた罪は重い。安全衛生防災課には、ゴールデンバウム王朝から安全な後方でぬくぬくと暮らし、そのまま残っているだけの人間も少なくない。今回のことが、精々いい薬になってくれればいいだろう。

 さて、そろそろ元帥の意識が戻ったことを医者や皇帝陛下にお伝えしようか、と思って立ち上がろうとしたフェルナーは、ふと、思い出したことがあり、椅子に座りなおした。

「ところで、閣下」
「なんだ」
「閣下にはお兄様がおいでなので?」

 その質問に、オーベルシュタインは一瞬、凍りついたかのように息を詰まらせた。だが、驚愕を押し隠すようにすぐに平静を取り繕い、何事もなかったかのように平坦な声で返答を発した。

「…私に兄はいない。兄弟姉妹は1人もいない。調べればすぐわかるはずだ」
「ええ、いないことになっておりました。ですが、閣下自身が仰っていたのですよ、『兄さん』、と。救急搬送される閣下に付き添いました際、閣下が小さな声でそう呟くのを聞きまして」
「…………」
「ご安心ください。おそらく小官以外には聞こえませんでしたし、他言もしておりません。するつもりもございません。ですがどうにも、野次馬根性と申しますか、閣下のお兄様がどのような方なのか気になってしまいまして。あのような危機的状況下で思わず呼んでしまうほど慕っておいでですのに、いないことになっている兄上とは…」
「…余計な詮索をするな」
「申し訳ございません、実は既に余計な詮索をしてしまいました」
「なに…?」

「シュテファン・ノイマン様。腹違いのお兄様、ですよね?」

「…………」
「とにかく情報源が少なく、探し当てるのに苦労しましたが、なんとか調べがつきましたよ。平民の女性との間の子供で、オーベルシュタイン家の使用人として雇われていた。その後、士官学校に入学して家を去り…古い街頭カメラの映像をあらってみましたところ、閣下がオーベルシュタイン家の当主となった後も、何度か訪ねてきておいでだったようですね?身分上、主従とはなりますが、幼い頃のお二人は大変仲がよい様子であったとか」
「……ほう…そこまで…調べがついたのか」
「調査局の人間でも、普通ならわからないでしょう。調べる理由もございませんし。小官をもってしても、運良く糸口をつかめたまでといったところです。しかし、昨今は全く訪ねてきておられないようですね。病気や事故で亡くなられた記録もなく、オーディンから離れた記録もない。喧嘩でもされたのか。それならば、この際小官ではなくお兄様に看病にお越しいただいて、ついでに兄弟仲直りといけば閣下の陰気も少しはマシになるのでは、と考えまして。昨日あたりからは居場所の特定を試みているのですが、見つかりませんでした。お目覚めまでにお連れできるとよかったのですが」
「見つかりようがない。……卿が連れてこられるはずもない」
「はい?」
「…兄は、」


「私が殺したからな」