目が見えないオーベルシュタインの話
その5

 絶対零度を下回るかのごとき冷気が、軍務尚書を中心に吹き出しているような錯覚にフェルナーは囚われた。彼らの居る高級病室は、ぬくもりを感じさせる暖色のランプで照らされており、さらに先ほどまで飲んでいたブランデーでフェルナーは体を温めたはずだったが、それらの温度すべてが突如、失われたかのようである。
 少しして、フェルナーは忘れていた呼吸を再開し、酸素を求めてあえいだ。それでも息が詰まるようだった。フェルナーが二の句も継げない様子のままとみると、オーベルシュタインは言葉を続けた。

「私の兄が、どんな人物か知りたいと言ったな」

「兄は、弟想いの優しい兄だった」

「幼少の頃に私が使っていた義眼は、よく不具合を起こし、私はしばしば突然視力を失っていた。そういう時に兄を呼べば、兄は何処に居てもすぐに私の元へ駆けつけ、私の面倒を看てくれた」
「兄は、使用人である自分の境遇に満足していると言っていた。極貧の平民として、いずれ徴兵され、成人するかどうかで死ぬだけだったはずの自分を、救ってもらえただけで感謝していると」
「だが、そもそも生まれた私が目の見えぬ子供とわかったから、…病気がちで身体も弱い子供だったから、いざというときに後継者の代替になるよう、愛人の子供である兄が連れてこられたのだ」
「私を殺せば貴族になれた。簡単にできただろう。幼い頃の私は、ご丁寧に視力を失っているときに兄を呼ぶうえ、兄の連れていくところ何処へでも疑わずについていった。頻繁に病気にかかり薬を大量に飲んでもいた。目の見えぬ私を崖か何かから突き落としてもよいし、薬を毒に替えて飲ませても良かっただろう。だが、兄はそうしなかった」
「やがて成長して、私がオーベルシュタイン家の当主となった後も…そう。訪ねてきていた。ずっと、私を気遣い、甲斐甲斐しく助け、護ってくれていた」
「私が兄を撃ったときすら、『弟を撃てるわけがない』と言って……私を撃たず、死んだ」

 そこまで告げると、オーベルシュタインはフェルナーの様子を伺うかのように、天井へ向けていた顔をフェルナーへ向けた。両目を包帯で覆われた軍務尚書の表情は、平時よりも一層読み取れぬように感じられた。

 まるで、仮面を被っているかのように。

 フェルナーは何度か深呼吸を繰り返し、震える声をようやく絞り出して問いかけた。

「…なぜ、…ですか…」
「皇帝陛下に、…当時、ローエングラム伯だった陛下に協力し、ゴールデンバウム王朝を倒すために、邪魔になったからだ。兄も、兄の仲間たちも」
「………………」
「私の弱みを握りたかったのなら、言っておくが、証拠を探しても見つからんぞ。現場も、遺体も、あの愚かなゼークト提督が玉砕させた旗艦の中だ。…彼は最期まで仕え甲斐のない上官だったが、証拠を消す手伝いをしてくれたことだけは、感謝すべきかもしれんな。在るのは私の言質だけだ。もっとも、姉君への愛情篤いラインハルト陛下相手であれば、それほど弟に優しい兄を始末したという一点だけで、逆上して私を処断してくださるかもしれん」
「小官に、そんなつもりは…ございません」
「……そうか」
「…医者に…陛下にも、閣下がお目覚めになったと、伝えてきます。…じき、ラーベナルト殿も、来ます。…失礼、しても」
「行け」

 フェルナーはぱっと椅子から立ち上がり、何もない床の上で躓きそうになりながら病室の出口へ向かった。一刻も早く逃げ出したい気分に体を押されながらも、振り返って軍務尚書に告げる。

「…この部屋に、監視カメラや録音機の類はございません。壁は防音です。ここであった話は、なかったことといたしましょう」

 それだけ言うと、フェルナーは病室の扉の内鍵を回し、病室の外へと出て行った。オーベルシュタインは、かすかな扉の開閉音を聞いたのを最後に、規則的な医療機器の電子音だけが響く静かな空間に一人残された。


 通路へ出て、病室の扉を閉めたフェルナーは、閣下がお目覚めになった、これから医者や陛下にその旨を伝えてくる、と傍に控えていた軍務尚書の護衛兵に伝えて立ち去って行った。護衛兵は、色を失った様子で良い知らせを告げる准将を不思議に思い、返事をしながらも首をかしげた。
 青ざめながら、無言のまま前を見据え、通路を足早に歩いていたフェルナーは、ふと、立ち止まって軍務尚書が居る病室を振り返った。扉には窓がついているが、ここからでは軍務尚書の様子を確認できない。

 兄を死なせたという結果は、果たして閣下の思惑通りだったのだろうか。かのキルヒアイスと同様、死なせることは予定外だったのではないだろうか。そんな疑問が頭の中に渦巻いたが、フェルナーは振り払い、目の前の職務に集中することにした。そんな質問を、閣下にすることはできない。もう話題にしてはならない。
 フェルナーは今一度、進行方向へ向き直り、通路を足早に歩いて行った。