ハンニバルパロ
人食い医者と猪警部
その3

 本日最後のカウンセリング患者を見送り、仕事を終えたタイミングでチャイムが鳴る。うすく微笑みながら玄関に出たオーベルシュタインは、思ったとおりの人物と挨拶がわりの抱擁を交わした。
「今日もお疲れ様。夕食にするか? それとも、先にシャワーをあびるか?」
「先生を食べたい」
 答えと共にギュッと強く抱き締められ、くすくすと博士が笑う。
「こまった警部様」
 しかしその声は、決して不快そうではなかった。

***

 寝台の上で一戦まじえ、二人して荒い呼吸を整えていると、どこからか『ギャア ガア』という奇妙な音が聞こえてきた。不審に思ったビッテンフェルトが辺りを見回すと、音源らしきものを視界にとらえ、彼は思わず微笑んだ。
 扉の隙間を通って、カモと思しき歩行鳥がよちよちと歩いてきている。人間に慣れているらしく、カモは、二人を視認すると、ぺたぺたと寝台へ近寄ってきた。
 それを見たオーベルシュタインは、寝台から身を起こし、おりてからしゃがんでカモに手を伸ばした。彼の手がカモの頭や首周りを撫でてもカモは不快がらず、『ガ』と応答を返すのみであった。
「ペットか? カモか、それ」
「そんなところだな。アイガモという、アヒルとカモの合の子だ」
「へええ……」
「すまんな、《チャールズ》。お腹がすいるのだね。今、準備してやるからな」
 博士の言葉を理解したのか、チャールズは『ガァ』と応答したのち、てちてちと部屋の外へ出ていった。
「めずらしいペットだな」
「ああ。無農薬栽培での害虫駆除や、食用肉によく用いられる動物で、とくに珍しくはないがね。ペットにしている者はあまり見ないな」
「先生は、動物に好かれそうだ」
 ビッテンフェルトの言葉を聞き、オーベルシュタイン博士は振り返ってニッコリほほえんだ。
「じつは、そうなんだ」

***

 自身の机で資料を前にウンウンと唸りながら、ビッテンフェルト警部は不機嫌をまきちらしていた。ここのところ残業つづきで、オーベルシュタイン邸にちっとも寄れていない。
 ああ、彼の作る料理が食べたい。彼の肌に触れたい……。
「ああ~~! あいつのメシが食いたい!」
 椅子にううんと背を預け、両腕を伸ばしながら声高に愚痴る。ビッテンフェルト警部は、およそ、思っていることを心中にとどめるということをしない男であった。(ただし、下ネタは口にとどめた)
 昼休憩の時刻となり、署内にチャイムが鳴り響く。すると、内線電話が警部宛にかかってきた。
「なんだ? 休憩中だぞ」
『お休み中もうしわけありません。玄関口にて、《オーベルシュタイン》と名乗る医師の方が、警部殿にランチを届けに来たと』
 内線は突如、ガチャンと切られた。対応にこまった受付係が受話器片手に悩んでいると、まもなく、ビッテンフェルト警部が息せき切ってやってきた。
 警部が玄関口までくると、待合スペースには確かにあの心理カウンセラーがいた。手には、ランチボックス入れと思しき手提げを持っている。
「先生!? どうしたんだ、突然」
「うん? さっき、内線で言われなかったか? ランチを作ってきたんだ。…迷惑だったかな?」
「いや、そんなことはない! …わ、わざわざ、おれのために…?」
「最近、君が来てくれないから寂しくてね」
 そう言い切る前に、ビッテンフェルトにガッシと抱き締められ、博士は
「ランチがこぼれてしまうよ」
 と、こまったように笑いながら言った。警部があわてて離れ、ランチの無事を確認する。
「ありがとう、先生。先生のメシが恋しくて仕方なかったんだ。嬉しい。今日も残業になりそうだが、おかげで頑張れそうだ」
「それはよかった」

 オーベルシュタインを見送り、ほくほくと幸せそうな顔をしてランチを提げて戻ってきたビッテンフェルトがボックスを開ける。中には、卵そぼろの乗ったご飯や、色とりどりのサラダ、それに、パワーのつきそうな揚げ物と焼肉なども入れられている。
「うまそうだ……」
 ビッテンフェルトがうっとりと眺めていると、ふいに、誰かの手がひょいと伸びてきて、ひときわ美味そうな揚げ物を取り上げてしまった。
「あああ!」
「はむっ。……んん、こりゃうまい。絶品だな、おまえのジョカノの愛情弁当」
「ガウナっ! てめえ!」
「いっこくらい、いいじゃねえか。みんな缶詰だってのに、お前だけずりぃぞ」
「…せ、せっかく先生が作ってくれたのに…!」
 同僚につまみぐいされたオーベルシュタイン弁当の残りを前に、ビッテンフェルトはガックリとうなだれ、それから、残ったものを急ぎ口に入れることにした。どれもこれも美味い。それゆえに、食われてしまった揚げ物が悔やまれた。

***

「ランチ、すごく美味かったよ先生。本当にありがとな」
『どういたしまして。喜んでもらえて嬉しいよ、警部』
「あの……ジャパニーズライス? うまいな。あと、こまかい卵と、ひき肉も…サラダもうまくて…あの揚げ物も美味そうだったのになあ」
『《美味そうだった》……?』
「同僚のガウナの野郎に横取りされて、それは食えなかったんだ……すまない、先生」
『ほう…………そうだったのか。……いいさ、また作ってやる』
「ありがとう、先生」
 会話を終え、受話器を置いたあと、ビッテンフェルトはふたたび仕事に戻っていった。

***

「先生!」
 ひさびさにオーベルシュタイン邸へやってこられたビッテンフェルトは、玄関が開くや否やオーベルシュタインに飛びつき、何度も激しく口付けた。苦しげに呻きながら、博士のほうも警部のアグレッシヴな愛情表現に応じる。
「ああ、先生。はやく欲しくてたまらない。先生のメシも、先生のことも」
「私も、冷めないうちに早く食べてほしいな……夕食も、その他のものも」
 ビッテンフェルトは、まず《その他のもの》をいただくことにした。

***

「……そういえば、チャールズはどうした? 先生」
 オーベルシュタインとともに夕食を囲みつつ、ビッテンフェルトが尋ねる。以前は、ペットのあの鳥もこの食堂で一緒に食事していて、壁際の隅に置かれた餌皿からモリモリ食べる様子を見ながら二人で夕食をとっていた。
「そこだ」
 オーベルシュタインがナイフを持った手でビッテンフェルトの皿を指し示す。すでに少し食べていたメインディッシュの肉は、そういえば、カモ肉のように見えた。
 ビッテンフェルトが青ざめた。
「た、食べた、のか? 料理したのか? ころしてしまったのか? どうして?」
「どうして?」
「だって。その。…先生、あいつ、ペットじゃなかったのか…?」
「? なにか、おかしいだろうか」
「先生、あいつをかわいがっていたじゃないか……」
「ああ。かわいかったよ」
「なら、なぜ?」
「なぜ、と言われてもな……《食べたいくらい可愛い》という言葉があるじゃないか」
「そりゃ、あるにはあるが……はじめから食うつもりだったのなら、あんなに、その……心を通わせたりしたら、つらくならないのか……?」
 突如、相手と自分の間に越えられない隔たりが生じたように感じつつ、ビッテンフェルトは恐る恐る尋ねた。
 あのアイガモのことが、ビッテンフェルトは割と好きだった。ようは《家畜動物》なのだろうが、人によく懐いていて、ぺたぺた歩く様やパクパク餌を食む様が何とも愛らしかった。
 なのに、どうして……。
「食べてしまう生き物に愛情すら与えないなど、とても残酷じゃないか」
 オーベルシュタイン博士がにっこりと答える。いつもの薄い微笑みなのに、そのときは、底知れぬ恐ろしさがビッテンフェルトには感じられ、ぶるりと身震いした。
 だが、博士の言い分への明確な反論は思い浮かばない。たしかに、『食べてしまう生き物と心を通わせるなんてつらい』というのは、人間側の手前勝手な都合に過ぎない。屠殺場で殺された肉を食うのも、かわいいチャールズが料理されたものを食うのも、いずれも、食われる側からしたら同じ話だ。
 肉食の博愛主義者はこう考えるものなのかもしれない。
「……わかった。チャールズの死を無駄にしないよう、大切に食べる」
「ああ、そうしよう。クチバシや羽根なんかは食えないが、そういうものも私は小物にして、自分で使ったり、寄付やフリーマーケットに出したりしているよ」
「そ、そうなんだな」
「ああ。たいせつな命だから、一片たりとも無駄にしない。食べ残したりするのは、自分のために犠牲になった相手への侮辱になるから」
 ビッテンフェルトは、『おれは二度と食事を残さないようにしよう』と密かに心に誓った。

***

 ビッテンフェルトが出勤すると、署内は騒然としていた。
「なんだ? なにごとだ」
「あ、先輩……大変なのです。ガウナさんが、事件に巻き込まれて……例の、『臓器狩り』の仕業とみて間違いなさそうです」
 ビッテンフェルトは身震いした。例の、オーベルシュタインにすら手がかりひとつ割出せなかった連続殺人犯のことを、署内では『臓器狩り』と呼んでいた。人体の臓器の一部――箇所はランダム――のみを、見事な外科手術で切り取り、証拠ひとつ残さず立ち去る恐怖の殺人鬼は、いまだ、しっぽの影すら警察に見せていなかった。
「今回盗られたのは『肝臓』だそうです」

***

「チャールズ、チャールズ。おいで」
 オーベルシュタインが優しく呼びかける。すると、脳味噌のサイズの割にかしこいアイガモがてちてちと彼の元へ歩み寄ってきた。博士が、ニッコリと微笑む。
 オーベルシュタインはそうっと手を伸ばし、チャールズを優しく抱き上げた。アイガモは抵抗せず、されるがままに持ち上げられる。そして、まな板の上へ大人しく置かれた。
 ころりと反転して横にならせ、その首を狙いやすいよう押さえる。それでもなお、チャールズは騒がす暴れず、されるがままにまな板へ寝転んでいた。
 ダァン、と肉切り包丁がまな板を打ったその瞬間まで、チャールズは主人をうたがわなかった。
 首無しになったアイガモを逆さまにし、あらかじめ置いておいた桶に血を注ぐ。この血は、いいソースの下地になるのだ。

 料理を出したときにビッテンフェルトが浮かべるであろう笑顔を想像し、オーベルシュタインはにこりと微笑んだ。

***

「今日は随分つかれているみたいだ」
 ガウナの訃報を聞き、必死の捜査も実らず、ぐったりと青ざめたまま訪ねてきたビッテンフェルトを見て、オーベルシュタインはそうコメントした。そして、オレンジ髪の警官の、彼にしては青白い顔を優しく撫でる。
「夕食を食べて、力をつけていきなさい。今日は、『フォアグラ・オ・トルション ワインソースとイチジク添え』だ」