ハンニバルパロ
人食い医者と猪警部
その4

「うぐぅぅ……ぉおお……ウオオオ……」
 異様な呻きに驚いて目覚めたオーベルシュタインは、声の主が、自分の背をガッチリ抱きしめて眠る恋人のものと気づいた。どうにかして身をよじり、オレンジ髪の屈強な警官を揺さぶり起こす。
「どうした、フリッツ」
 ようやく鳶色の瞳が見え、博士は静かに問いかけた。密着したビッテンフェルトの体は、情事の最中のように汗ばんでいる。
「あ……ゆめ、か……よかった……」
「こわい夢を見ていたみたいだな。どんな夢だ?」
「……あの、犯人が……『臓器狩り』の犠牲者がでた、と、聞いて、現場に駆けつけたら、先生の家について……先生が死んでいる……そういう夢だった」
 思い出すのも恐ろしいとばかりに警官はブルリと震え、すがるように博士を強く抱きしめた。
「ガウナを殺ったアイツはまだ見つかっていないんだ、先生。ヤツは、次に誰を殺るつもりだろう? もしアイツが、先生を手にかけたら、と思うと……」
 豪胆な性格で、陰鬱とは縁がないビッテンフェルトが、真っ青に青ざめ震えている。得体の知れない『臓器狩り』に相当まいっているらしかった。
「屈強な警官ですら殺されてしまったとなると、私は、ひとたまりもないだろうね」
「そうだろう!? それに、ガウナは馬鹿じゃない。『臓器狩り』のことをよく知っていたから、得体の知れない者をおいそれと家に入れる筈がないんだ。なのに……」
 そのまま口をつぐんだビッテンフェルトの頭を、博士はポンポンと撫でた。
「ひとつだけ、絶対に、『臓器狩り』に私を狩らせない方法がある」
「…!? それは?」
「それはな…」
 オーベルシュタインは、警部の耳元に囁きかけた。

「君が、私を食ってしまえばいい」

「一片のこらずな。そうすれば、いかに名高い『臓器狩り』といえど、私を、ひとかけらも奪えぬ。永遠に君と一緒だ」
 ビッテンフェルトは答えに窮し、パクパクと口を動かし、言葉を行きつ戻りつさせたあと、
「笑えないぞ、先生。……眠いんだな。すまん。おれが起こしたせいだ」
 と、ようやく応じた。
「気にしなくていい」
 そう、博士が答える。それを最後に二人の会話は途切れ、ビッテンフェルトは、いつの間にか再び眠りについた。
 今度は、カウンセラーが襲われる悪夢を見なくなった。……その代わり、言い知れぬ不安が渦巻いていた。
 しかし、今宵の答えこそが重大な分岐点だったということに、ビッテンフェルトは最期まで気づかなかった。

***

 戦火に追われ、広い屋敷から命からがら逃げ出し、一緒に逃げていた両親すら奪われ、おさない兄弟は飢えていた。
 心優しく丈夫な兄は、どれだけ追い詰められても、病気がちな弟を気にかけた。食料が手に入ると、まっさきに弟に食べさせ、自分は水を呑んで耐えた。暴漢に襲われれば、身を挺して小さな弟をかばった。
 空腹に苦しんだときや、どうしようもなく不安に苛まれたときは、弟を抱きしめて「大丈夫だ」と言い聞かせ、背を撫でた。自分にとって、弟は『負担』ではなく、最後の『希望』だった。

 しかし、神は、あわれな兄弟を救おうとはしなかった。小さく弱い弟は、なにもできない代わりに毎朝毎晩神に祈ったが、二人に救いは訪れなかった。弟は、『神はいない』と悟った。もし居たとして、それは、祈るに値する存在などではなく、自分達のような無力で弱い存在を甚振り嘲笑っている者なのだ。
 あるとき、まったく食料が手に入らなくなった。あと一週間、あるいは二週間すれば、少しは手に入るかもしれない。だが、もう限界だった。盗む力すら、飢えた兄弟には残っていなかった。
「シュテファン兄さん」
「どうした? いや…そうだな。腹が減ったな。ごめんな、パウル…」
「ちがうの。そうじゃなくて」
 廃屋めいた小屋で寄り添い寝る弟に、不思議そうな顔を兄が向ける。
「このままじゃ、ぼくたちは二人とも死んでしまうよ」
「…心配するな。きっと、もうじき、二人分の食料が手に入るさ。兄さんを信じろ」
「…ねえ、兄さん」
「なんだ?」

「ぼくを食べてくれ」

「……な、なにを言い出すんだ」
「このままじゃ二人とも死ぬ。そんなのはイヤだ。母上と父上の死がムダになってしまう。けれど、片方だけなら生き延びられる。ぼくを食べて、兄さん。兄さんにだったら、食べられてもいい。あのウサギみたいに」
『あのウサギ』とは、二人が戦火に追われて孤児となってすぐの頃、兄が捕らえて夕食にしたウサギである。そのとき初めて、弟は、だいすきなウサギに愛玩以外の用途があることを知ったのだ。
「冗談はよせ! 笑えないぞ」
「ぼくは本気だよ。このままじゃ二人とも死んでしまう。それに、兄さんは言っていたでしょう? 『このウサギは、おれたちとひとつになって生きていくんだ』って」
「それは、そうだが……」
「だったら、」
「ダメだ! そんなことできるか! パウル、お前が……お前がおれの、たった一人だけ残った家族なんだぞ。お前を食べてしまったら、おれは、何を支えにして生きたらいい? そんな事は絶対にできない!」
「兄さん……」
「もう寝るんだ。この話は終わりだ、いいな? 腹が減って、まともに考えられなくなっているんだ」
「…………」
 弟はまだ何か言いたげだったが、賢明にも口をつぐんだ。兄は、とても悲しそうな顔をしながら、弟のかわいい顔を撫でた。
「……パウル。おれは、お前を守るためだったら何でもやる。命だって惜しくない。明日になったら、ぜったいに食料を手に入れてみせるからな……」
「……わかった」
 弟が立ち上がる。兄は、不思議そうに彼を見上げた。
「トイレいってくる」
 兄がうなずく。弟が寝床を離れていく。すると、急激な睡魔に襲われ、兄は眠りについた。

 しばらくして戻ってきた弟の手には、乾いた血のついたナタが握られていた。捕らえた動物を兄が殺し、『食べ物』に変えるときに使っているものである。そのやり方を、弟はよく見ていた。
『首を一太刀で落としてやるんだ、苦しませないようにな』、そう、兄はよく話してくれた。

 寝息をたてる兄の上で、弟は、ナタを大きく振りかぶった。

***

 カウンセラーの家に招かれ、装飾品を眺めていたミュラーは、あるものを見つけてギョッとした。
「これは……しゃれこうべ、ですか? リアルですね。本物みたいです」
「そうでしょう。『シュテファン』という名前です」
「な、名前!? しゃれこうべに名前をつけておられるのですか?」
「? ふつう、ついているものでしょう」
「そ、そうですか」
 そうか、普通ついているものなのか。知らなかった。『感性が人と違う』とは、行方不明の先輩からもよく聞いていたが、オカルト趣味もあったとは。

 もの珍しげにキョロキョロと内装を見回すミュラー警部を見て、オーベルシュタインは薄く笑みを浮かべた。
 なんだか、ウサギみたいだ、と、彼は思っていた。

Ende