フロイライン・ビッテンフェルト
その3

「……と、いうわけで」
 海鷲のボックス席にちんまりと両脚を寄せて座り、興味津々の提督たちに囲まれたビッテンフェルトが、彼女にしては小さな声で言う。
「つきあう……ことに、なった」
 ヒュー! と、提督たちが口笛を吹き、拍手を打ち鳴らす。何事かを知らぬ周囲の客たちまでも、酔った勢いで共に彼女を祝った。
「よかったな! これで卿の嫁ぎ先は安泰だ」
「つきあうことになっただけだ! 嫁ぐとは決まっておらぬわ!」
「またまた。あの軍務尚書と遊びで付き合えるものか、結婚前提であろう」
「求婚されたとのことですしな」
「う、うるさい! だから、あたしはまだ決めておらぬと――」
「おめでとう。卿らの将来に乾杯だ」
「乾杯!」「乾杯!」「おめでとうございます!」「今日は奢るぞ!」
「う、うるさいぞ卿ら! 勝手なことを言うなー!」
 こぶしを握りしめ、ビッテンフェルトが叫ぶ。だが、周囲が聞き入れる様子はなく、すっかり婚約か結婚を済ませたような騒ぎようであった。
 ロイエンタールが、気前よくシャンパンを1本、同窓のビッテンフェルトのために注文する。それをグラスに注がれ渡されると、ビッテンフェルトは顔を真っ赤にしたまま受け取った。
「……乾杯」
「乾杯!」「乾杯!」「無事に身を固める猪提督へ!」
「きさまら祝うのか侮辱するのかどっちかにせんか!」
 ハハハハ、と笑いに包まれる。海鷲のマスターも祝いに軽食をおごってくれ、小さな宴は大いに盛り上がった。

      *

「卿にプレゼントがある」
 通算2,3度目の、食事と会話を共にするだけの極めて紳士的なデートのとき、オーベルシュタインがそのようにビッテンフェルトに申し出た。ビッテンフェルトがどきりと目を丸くする。
(プレゼント? ……オーベルシュタインが? な、なんだろうな。奴のくれるもの……わからん、難しい本? ……文具? ……も、もしや、アクセサリーか何かか?)
 ビッテンフェルトは、見た目に似合わず、女性らしい装飾品や服を好んでいた。だが、彼女の気質や見た目に相容れないという過去の評価に囚われ、それらを忌避する傾向があった。それでも、心の奥底に乙女が住んでおり、アクセサリーや綺麗な花束などを望んでいた。
 オーベルシュタインが、持参していた鞄から何やら包みを取り出す。それは、両手大の簡易な包装であった。服を一着入れられそうな大きさだが、それにしてはやや重量感がある。
 いったいなんだろう、と、ビッテンフェルトは首をかしげた。
「気に入って貰えるといいのだが……」
「お、おう。ありがとうな」
 おずおずとビッテンフェルトがそれを受け取り、自分の空いた皿を少しどけ、目の前のテーブルに置く。わくわくと、彼女は包みを解いた。

 中身は、牛肉のブロック(約3kg)だった。

 オーベルシュタインが期待を込めて見ている。だが、ビッテンフェルトの顔は虚無だった。彼女はしばらく無言であった。
(……なんだこれ。肉…か? 何かの間違いではないのか? 本当に肉……?)
 ビッテンフェルトは、肉の塊をぐるぐるひっくり返して確認してみた。それは、真空パックされた、脂が霜降り状にたっぷりのった、牛肉のブロックに間違いなかった。
「……好きだと、聞いたのだが」
 オーベルシュタインが、思ったより反応がよくなかったとばかりに言う。
「……好きだが!!!!!」
 複雑な気持ちになり、ビッテンフェルトは肉の上に顔を伏せて嘆いた。
(好きだが! いや、たしかに好きだが! プレゼントって! 肉って! しかもデカい! くそっ!)
「……帰っていいか?」
 ビッテンフェルトが顔を伏せたまま言う。
「……ああ。会計は私が持つ。先に出ていてくれ」
 オーベルシュタインは、常の淡々とした声で応じた。

 オーベルシュタインが会計を済ませて店を出たとき、ビッテンフェルトの姿はなかった。

「ア゛ク゛セ゛サ゛リ゛ー゛と゛か゛服゛と゛か゛貰゛え゛る゛良゛い゛女゛に゛な゛り゛た゛い゛!!!!!」
 隣にミュラーを座らせ、海鷲のカウンター席に座ったビッテンフェルトは、ビールを3杯ほど一気にキメた後にそう泣き叫んだ。
「う゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛!!!!!」
「ど、どうなされました。軍務尚書どのですか、また。何をもらったので?」
「……3゛キ゛ロ゛の゛ぎゅ゛う゛に゛く゛」
「ん゛ぐっ」
 げふげふ、とミュラーが咳き込む。ビッテンフェルトに鋭く睨まれ、ミュラーは慌てて謝罪した。
「たいへん失礼しました。……牛肉、おきらいでしたっけ?」
「好きだ! 意外と良い肉で美味かったさ!」
「もうお召し上がりに」
「まだ残してあるわ! ……だがなぁ! 美味いし好きだがなぁ! もっとなあ、こう……かわいいお菓子とか……アクセサリーとか、服とか……う、う」
 ビッテンフェルトはハンカチを取り出し、ぢいん! と鼻水を出した。飛沫はとばなかったが、その風圧がミュラーの横顔を撫でる。
「……わがってるんだ、あだじにぞうい゛うの似合わないがらだ……うううう……。マスター! もう1杯だ!」
 マスターが追加のビールを注ぐ。それを一気に飲み干すと、ビッテンフェルトは一息ついた様子を見せた。……と、同時に、カウンターに頭を沈めた。眠ってしまったようだ。
「……女だからアクセサリーや花、などと安直に走らず、牛肉を選ぶとは、軍務尚書のやつ、むしろビッテンフェルトを良く見ているのではないか?」
 ロイエンタールの声がした。ミュラーが見回すと、さっきまで気づかなかったが、離れた席にミッターマイヤーと相席する彼がいた。
 ミュラーは、こまったように笑いながら支払いを済ませ、ビッテンフェルトを官舎に送り返す準備を始めた。

      *

 その日も、いつもの軍務省執務室になるはずだった。定時のチャイムが鳴り、軍務尚書と官房長官が帰り支度を始めたとき、ふいにオーベルシュタインの静かな声が響いた。
「フェルナー」
「はい」
「私的なことだが、差し支えなければ相談したいことがある」
「なんです? ぜひ、お伺いしたいです」
『面白そうな気配がする』とばかりに緑の目をらんらんと輝かせ、フェルナーは頷き快諾した。
「ビッテンフェルト提督とのことだ」
「ほうほう! お付き合いを始められたのでしたね、デートも数回なされたとか。ようございました。なんです? おすすめのホテル? デートスポット? この時期でしたら、○○地区にある夜景スポットなど……」
「彼女にプレゼントを贈った」
 フェルナーが意気揚々とまくしたて始めたのを打ち切り、静かな声でオーベルシュタインが遮る。その声はいつもよりほんの少し沈んでいる、と、フェルナーの敏感な耳は察知した。
「……ほう? どのような」
「高級牛肉のブロックだ」
「ぶほっ」
「重さは3キロ」
「わあああ! あははは!!」
 フェルナーが思わず腹を抱えて笑い出す。オーベルシュタインは、そんな彼を咎めず、ただ静かに見つめた。静かなる悲しみのオーラをまとって。
 フェルナーはすぐに、すん、と笑いを止めた。
「……大変、失礼致しました。閣下の心よりの贈り物を笑うなど」
「……彼女は、好きだと聞いたのだ」
「お好きでしょうね」
「だが、あまり喜ばれなかった。むしろ嫌そうでな」
「そうでしょうね」
 フェルナーはまた笑いそうになった。だが、上官の悲しげな目元を見て、その笑いを飲み込んだ。
「なぜだ」
「それは……そうですな。相手の好きな物を、というアプローチは結構かと存じます。しかし、相手は女性ですから、もっと考えて差し上げませんと……」
「考えた」
「は、」
 説明をしようとしていたフェルナーは、オーベルシュタインの言葉に気を取られた。オーベルシュタインの薄い唇が開き、彼が説明を始める。
「女性は子供を産む」
「はい」
「つまり、良質な栄養を蓄える必要がある」
「ええ」
「本人が好きな食物から得られれば、なおよい」
「ふむ」
「したがって、肉だ」
「そうですな」
『こいつは面白くなってきたな』とフェルナーは思った。

 その日は、オーベルシュタインの完全なる正論を破れず、女性の扱いについて意見すること叶わなかった。