殺人鬼のフェルナーとオーベルシュタインの話
その4

 首都フェザーンがはげしい雷雨に見舞われた、その日。

 フェルナーは官房長としての定時の報告をまとめ、軍務尚書へ手渡すべく、愛しの『ドライアイスの剣』上官が居るはずの彼の執務室へと向かっていた。
 本当であれば、この報告は手渡す必要などない。口頭での説明が必要そうな案件はないので、軍務尚書宛てに電子的に送付すれば済んでしまうだろう。だがフェルナーは、軍務尚書と会って話せる機会を棒に振るつもりなど毛頭なかった。それ自体を楽しみたいのは勿論のこと、どうにかして自分を元の主席副官として復帰させるよう、彼を説得したかったのである。
 扉の前に辿り着くと、フェルナーは両脇を固める衛兵の1人に目を向け、愛想の良い笑みを浮かべて話しかけた。

「お勤め、ご苦労。軍務尚書への定時の報告に伺ったのだが」
「はっ。お疲れ様です、フェルナー准将。ですが只今、尚書閣下はご不在ですよ。御前会議に出席するため、外出しておいでです」

 衛兵のその言葉を聞くと、フェルナーの顔から、ふ、と笑顔が消え、無表情になった。罪のない衛兵たちの周囲の温度が、突然下がったように感じられる。フェルナーはすぐに笑みを自身の顔に貼り付け直したが、彼の翠玉の目のほうは些かも笑っていなかった。

「………はあ、そうか。そういえば、そうだったな…副官の任にあれば、ご一緒するので忘れようもなかったが…そうか。いらっしゃらないのか。…邪魔をした。それでは、報告は後ほど、閣下に宛てて送付しておく。尚書閣下がお戻りになられたら、そう伝えておいてくれ。では」

 そう言うと、フェルナーはくるり、と踵を返し、元来た道を引き返していった。彼の後ろ姿が曲がり角を曲がって見えなくなると同時に、衛兵たちは詰まらせていた息を吐き出した。

 優秀かつ公平なれども冷徹鋭利の軍務尚書と、部下たちとの間に立ち、フェルナー准将は、軍務省が円滑に機能するように動いてくれていた。効果は高いが劇薬のごとき軍務尚書に対し、いわば解毒剤のような役割を果たしてくれていた。だが今では、彼自身が周囲を麻痺させる劇薬に変わってしまったかのようである。
 尚書閣下はどういうおつもりなのか。できれば早めに、彼を副官の任に戻してはくださらないだろうか。軍務省の面々は、ローエングラム王朝成立後はじめての氷河期に耐えながら、そんなことを心の中で祈り願っていた。

──────────

 オーディンの上空の空気を引き裂く雷が、目の眩むような閃光を走らせ、屋外にいる人々の網膜を焼く。電子の移動がもたらす強い光が放たれるたび、怒号のような雷鳴が響き渡る。雷に負けまいとするかのごとく、滝のような豪雨もまた間断なく降り注ぎ、オーディンの街の石畳を打ち鳴らす。

 その轟音の嵐の中で、1人の人間の断末魔が掻き消された。

 建物と建物の間にできた、目立たぬ路地の隙間の奥で、1人の男が壁を背にして、崩れ落ちたように力無く座り込んでいた。男の首筋は大きく切り裂かれており、傷口からは血流が滝のように溢れ出していた。流れ落ちた赤は、豪雨でできた濁流と混ざり、排水口の中へと押し流されていく。
 もはや助からない重傷を負った男の目の前に、黒いフード付きのレインコートを着た長身の男が立っていた。その手には、血で濡れたナイフを握っている。
 コートを着た男は、わずかに身を屈め、既に死が確定した目の前の男の胸に、さらにナイフの切っ先を叩き込み、心臓を抉った。すぐに引き抜くと、目に、顔に、腹に、二の腕に、と、ナイフの刃を次々に叩き込み、切り裂いていった。
 やがて、ズタズタに切り裂かれ、体中を真っ赤に染めあげられた惨殺死体がひとつ出来上がった。ようやく満足したのか、コートの男はナイフを突き立てるのをやめ、血を拭い取って鞘に収めた。代わって、黒革のカバーのついた、ごくありきたりな手帳を取り出し、パラパラとページをめくった。目的のページに辿り着くと、そのページに並んだ名前のひとつにペンを走らせ、横線をひく。
 ぱたん、と手帳をとじて懐にしまうと、コートの男は殺戮現場から立ち去っていった。少し離れた場所で、血に塗れたレインコートを脱ぎ、用意しておいたバッグにしまいこむ。代わりに雨傘をさし、フェルナーはバッグを脇に抱え、何事もなかったかのようにゆったりとした様子で表通りに出ていった。この悪天候の中ではほとんど人通りがなく、僅かに歩く人々にしても、何の変哲もない銀髪の軍人に気を取られる様子はなかった。

 やがて、官舎の自室に着いたフェルナーは、血みどろのコートを詰めたバッグを床に放り投げ、天井を見上げて不満気な溜め息を吐き出した。満たされない、という思いが拭えなかった。
 軍務尚書に感づかれはじめたというのに、随分派手にやってしまったし、後片付けをする気にもなれなかった。いよいよ、彼に見つかるだろうか?オーベルシュタイン元帥の粛清の手が、自分にのびる?それもいいかもしれない。フェルナーは、飄々として大胆不敵な彼らしくもなく、自暴自棄な気分になってきていた。
 傘では防ぎきれず、雨で濡れてしまった軍服を脱ぎつつ、フェルナーは彼の手帳をふたたび取り出した。ぱらぱら、とページをめくり、これまでに横線をひいてきた人名の羅列をぼんやりと眺める。そういえば、今日の相手の遺言は聞き取れなかったな、などと今更ながら考えた。

 もしも軍務尚書を手に掛けたとしたら、彼はどんな言葉を聞かせてくれるだろう?

 ふと、そんな考えが浮かび、フェルナーは慌てて頭を振り、不逞な考えを自分から振り払おうとした。しかし、自分の手にかかり、死に追いやられる軍務尚書の姿が脳裏に浮かぶ。
 無機質な義眼の眼光を自分へ真っ直ぐに向け、常より青白く血の気の失せた肌色を一層蒼白にさせている。感情を表に出さないその顔に浮かぶのは、自分を眼光だけで射殺さんばかりの怒りの表情か、最期まで威厳を保とうとする決意に満ちた表情か、それとも、自分がまだ見たことのない恐怖の表情か…。

 フェルナーは頭を振り、その想像も振り払おうとした。正気の沙汰とは思えない考えを、早く熱いシャワーを浴びて洗い流してしまおうと、急いで服を脱いで浴室に入る。
 ほどなくして、外の冷たい雨水と違い、シャワーが心地よく彼の体を温めた。だが、軍務尚書の姿は脳裏から離れない。ロウソクの火が吹き消される、その一瞬に強く燃え上がるがごとく、死を目前に激しく表情を変える軍務尚書…。

 今の彼にとって、その想像はあまりにも甘美だった。