オーベルシュタインの娘
その10

 オレンジ色の髪と面長の顔を持ち、黒い外套を背中から垂らした元帥が悩ましげな呻き声をウーウーとあげ、ナワバリを巡回する獣のごとくオフィスの中を行ったり来たりする。見かねたオイゲン大佐は思わず声をかけた。

「落ち着いてください閣下。たかだか14歳の女の子ではございませんか」
「おおおおお落ち着いているわっ!!! 恐るるに足らん、そうっ! たかが14の、オーベルシュタインの娘が来ることくらい!!!」

 うーん、困った。対応に悩むあまり、オーベルシュタインのご令嬢を預かるということに過剰な恐怖を感じるようになってしまわれたようだ。死の恐怖を物ともせず突き進む、我ら黒色槍騎兵艦隊の誇り――ビッテンフェルト帝国元帥は。人が真に恐れるものは未知である、という、いつか見た格言が頭に浮かぶ。

 彼がこれほど悩むのにも事情がある。過去の帝国において当たり前であった男女差別的思考をさしたる疑問なく受け入れてきた彼には、この度、オイゲン大佐付きという名目ではあるが実質自分が預けられた『オーベルシュタインの軍人の娘』への対応がとんと検討つかぬのである。
 息子ならばまだ良かった。男として時に厳しく叱咤し、時にその力を認め、いずれは、デスクの脇で過ごす父親の教えよりもこの自分の教えを敬うように指導し、第二の父たる自分の元で立派な帝国軍人としてやればよい──そう都合よくいくかどうかは兎も角、そのような心積もりを決めてかかることができたはずだった。
 だが、奴の子は女だ。大の男が少女を厳しく叱咤するなど、ビッテンフェルト家の基準でいえば勘当ものの恥ずべき卑しい行いである。無論、手を上げるなど以ての外で、そのような者が家から出たなら自らの手で処刑せねばならぬとすらビッテンフェルトは考えていた。女性には優しく語りかけ、時には危険から守り、大切に扱わねばならない。
 一方で、その娘は軍人である。帝国軍人の何たるかを学ぶためにここへ来る。帝国軍人たるを学ぶなら、優しく接されるべきではないし、人に守られるなど本末転倒であるし、大切にされるのではなく身を挺して大切な祖国を守れと教えねばならないだろう。
 矛盾する二つの思想に挟まれて堂々巡りし、猪突で鳴らすビッテンフェルトは、突き進むべき道を見いだせず、一体どのような顔でこれから来る少女を迎えればよいのかすら決めかねていた。更にタチが悪いことに、その娘ときたら、見た目が父親と瓜二つであるだけでなく、物言いの冷ややかさと不遜さに至るまでそっくり同じなのだという。間違ったことを口にすればその瞬間、オーベルシュタインの名に恥じぬ正論の一斉掃射を受けることとなるであろう。

 結果、ビッテンフェルトは、オーベルシュタインの娘と相対することをひどく恐れるに至っていた。
 激しく叱咤したり手を上げたりしたら自分の負け、だが、へりくだって優しく接してもやはり自分の負け……手を出しようのない無敵の恐るべき敵が目の前にやってくるように思われ、ビッテンフェルトは落ち着けなかった。

 こんな状態で初めての軍務をこなさねばならぬとは、いやはや、命の危険はないといっても令嬢には可哀想に、と、オイゲン大佐は、これから一時自分の部下となる少女を思い、嘆いた。

***

「ベアテ・フォン・オーベルシュタイン学生、着任しました。至らぬ所多々あるかと存じますが、御指導、御鞭撻の程、よろしくお願い致します」

 少し白髪のある少女がピンと背筋を伸ばし、ビッテンフェルトとオイゲンの前に立って完璧な敬礼をして見せた。面立ちが確かに軍務尚書とよく似ている。しかし、14の少女らしくあどけない。何より、父親と違って、生まれ持った健康な目があるせいか、見開いた眼の輝きが彼女を生き生きと魅せていた。

「ウォッホン! ……よく来たな。オーベルシュタイン。短い間だが、帝国軍人たる自覚を持ち、その身分に恥じぬ働きをするように」
「はい」

 異様に仰々しいビッテンフェルトの姿に苦笑しつつも、予想していたよりは悪くないファースト・コンタクトとなったことをオイゲンは喜ぶことにした。

「ここに居る間の貴官の身分は、軍曹待遇とする。オイゲン大佐の指示をよく聞くように」
「はい。閣下」
「うむ。では、オイゲン大佐。さっそく軍曹に仕事を教えてやれ」
「承知しました。それでは……まずは、われわれ3人分のコーヒーでも煎れて貰いましょうか」
「んん。そうしてくれ、軍曹」
「はい」

 指示を受けたベアテが、軍人式の完璧な『回れ右』でクルリと後ろを向き、扉へ向かおうとする。

「軍曹。場所はお分かりですか?」
「はい、大佐。通路を出て右に約5メートル、曲がり角を右に進み約3メートル先の左手が給湯室でございますね」

 声を掛けられて立ち止まり、軽く振り返り見ながらベアテが答えた。

「あ、……ああ。そう、ですね。距離を測ったことはありませんが、たぶん合っていますよ。来るときに見かけたのですか?」
「はい。本日は着任初日ですので、1時間早く到着し、警備室にて建物の見取り図を見せて頂きました」

 ビッテンフェルトとオイゲンが唖然とする。話が終わったと判断したベアテは、給湯室を目指して執務室の外へ出て行った。

「……まさか、もう建物全域を暗記していたりするのでしょうか」

 信じがたい思いでオイゲンが言う。だとすれば、今日一日で彼女は、黒色槍騎兵艦隊の詰め所を自分以上に把握したということになる。

「……さすがは、軍務尚書の娘だ。やることに可愛げがない」
「まあまあ、何も、悪いことをしている訳でもございませんのに。役に立とうと頑張っているのだと思えば、かわいいものではございませんか」

 オイゲンがフォローを入れる。ビッテンフェルトはフン、と鼻息で応じた。たんなる難癖でしかないことは、彼自身も自覚していた。

***

 ベアテが出て行ってから10分が経ち、20分が経った。

「ずいぶんと遅いな?」

 時計を見上げながらビッテンフェルトが言った。給湯室はすぐ近くにある。多少手間取っていたとしても、そろそろ戻って良い頃だった。

「道に迷ったか?」
「出るときに口にした経路は正しかったようですが……何か、問題が起きたのでしょうか。ちょっと見て参りますね」
「ああ、頼む。サボリでもしていたら、軍務尚書に言いつけてくれよう」

 困った笑いを返しつつ、オイゲンは執務室を出て行った。

 給湯室に行ってみると、そこにベアテが居ることがわかった。コーヒー豆の袋を両手で持ち、袋をじっと見つめている。サボッている様子ではない。コーヒーを煎れようとはしているようだ。しかし、豆を見つめたまま突っ立っている。何をしているのだろう。

「オーベルシュタイン軍曹?」

 声を掛けられ、弾かれたようにベアテがこちらを見る。

「どう、したのですか? 豆をじっと見つめて」
「…………コーヒーの……煎れ方が、わからなくて……」

 先ほどとは打って変わって、自信をすっかり失ったような悲しげな声でベアテが答えるのを聞き、オイゲン大佐はしばし両目を瞬かせた。そして、すぐに柔らかな笑みを浮かべ、相手を傷つけないよう優しく声をかけた。

「ああ、そうだったのですね。いつまでも帰ってこないので、何かあったのかと心配しましたよ」
「……この程度のこと、聞きに行ってもいいものとは思えなくて……ですが、どうしても、マリーが……マリーが持ってきてくれた後の、カップに入っているところしか思い出せなくて……」

『マリーというのは彼女の世話をしているメイドかな』とオイゲンは推測した。そうかそうか。そりゃあそうでしょうな。オーベルシュタイン家というのは、以前からそれなりに領地もあるような家柄だったそうであるし、御令嬢にコーヒーなど煎れさせる筈もない。

「よいのですよ。誰にだって、初めてがあるのです。わからない事があったら何でも聞きなさい。貴官は、学ぶためにここへ来たのですからね」
「…………はい」

 それから更に10分後、オイゲンとベアテが並んで戻ってきた。ベアテが運ぶ盆には、3つのコーヒーカップが載せられている。オイゲン監修のもと煎れられたコーヒーは、無事、ビッテンフェルトを満足させる出来に仕上がっていた。
 ベアテに聞こえないタイミングを見計らい、コーヒーの顛末をオイゲンがビッテンフェルトにそっと伝えると、ビッテンフェルトはガハハと豪快に笑い、ようやく無意味な恐怖から解放された様子を見せた。

***

「どうだった」

 その日の夜、黒色槍騎兵艦隊の詰め所で働くため、フェザーンの生家に帰宅していたベアテが戻ると、早めに帰っていた父親が尋ねた。

「コーヒーの煎れ方がわかりませんでした」

 ベアテが淡々と報告する。「ああ……」と、何かを理解したような様子で父親が応じる。

「のめるコーヒーを出せたか」
「はい。オイゲン大佐が様子を見に来て下さり、となりに立って、煎れ方を教えてくださいました」
「なら、私のときより良い」
「父上も同じことでお悩みに?」
「ああ。教えてくれる者がいなかったので、粉入りのコーヒーを上官に出した。粉が気管に入ったようで、ひとしきり噎せた後、『何の嫌がらせだ』とひどく怒られた」
「それは……大変でしたね」
「うむ。ラーベナルトが煎れてくれた後のコーヒーしか思い出せなくてな……あの粉は溶けるのではないかと思ったのだ」
「いくら学べども、己の無知を知るばかり……」

 しみじみと語り合う父娘の会話を通路で盗み聞き、オーベルシュタイン家の使用人たちは笑いを噛み殺すのに必死になっていた。

 その後、例によってどこからか話を聞きつけたミュラー提督が、シーアドラーで噂話をしたとかしていないとか。