オーベルシュタインの娘
その11

「おはよう、学生くん」

 外来者向けの応接室に通され、かけているよう受付の者に言われたが、これから会う元帥の厳しいひととなりを考慮し、ヴィクトール・リュディガー・ビッテンフェルトは立ったまま迎えを待っていた。声をかけられ振り返ると、くせ毛の銀髪で、軍務省勤務にしては悪くない体つきをした中将がいた。軍務尚書直属の部下、官房長官アントン・フェルナー中将だ。ヴィクトールは、サッと右手をあげて敬礼した。

「おはようございます。フェルナー中将閣下」
「時間通りだ。えらいね」

 子供あつかいだ。ヴィクトールは苛立ちを覚えたが、実際、革命の前から軍人をしているベテランからすれば、自分はヒヨコのようなものだろう。苛立ちを飲み込み、「軍人でありますれば無遅刻が当然です」と応じた。
 そんな心境の移り変わりが、顔を見ているだけで手に取るようにフェルナーには読み取れ、『見た目も中身も父親そっくりだ』と思ってニッと笑った。ただし、子供であるぶん、面倒さよりは可愛さを感じられる。ふだん、藍からインディゴのような微妙な顔色の変化ばかり追っているので、彼のように、赤から青へ、それから白、のようなハッキリとした変化が新鮮だ。
 彼は、とても緊張しているらしい。そりゃあそうだな。おれが彼の立場なら、小便ちびるのを一日こらえ切れたら、それだけで自分を褒めてやりたい。

「けっこう。これからよろしく頼むよ、ビッテンフェルト学生。そうそう。ここでの君の待遇は軍曹だ。さ、行こうか。まずは、軍務尚書にご挨拶。お父君からどんな噂を聞いているか知らないが、とりあえず、いきなり君を取って食ったりはしないから、その点は安心してくれ」
「……はい」

 フェルナーの冗談もむなしく、ヴィクトールは真面目くさって応じた。うーむ、ツッコむ余裕もないか。まさか、取って食うって本当に教わってないだろうな。
 カチコチ、と聞こえてきそうな強張った足取りでついてくるヴィクトールを従え、軍務尚書執務室へフェルナーが向かう。中へ呼びかけ、扉を開く前に「さあて、いよいよご対面」とからかい交じりに告げると、ヴィクトールは面白いほど顔色を白くしていた。ああ、閣下から話を聞いたときは『なんて面倒な』と思ったものだが、なかなか悪くない。

 執務室の扉が開く。奥の机に、軍務尚書が一人座っていた。
 おや、春一番かな? と、中の空気を感じると同時にフェルナーは思った。物理的な温度ではない。この部屋の主が醸し出す雰囲気のことである。
 ヴィクトールに先をゆずり、フェルナーも後から続いて入る。ゴクリ、と唾を飲んだあと、ヴィクトールは両のこぶしを体の両脇でグッと握り、意を決して軍務尚書の前へ立った。軍務尚書が顔を上げ、やってきたヴィクトール少年を見やる。

 ……おいおいおい閣下、なんですかその、穏やかな優しい御顔は! ウッソだろ、ここであんな顔してる尚書閣下見たことないぞ。意外にも子煩悩な方だとは思っていたが、もしや、子供が好きなのか……?

 上官の、いつになく優しげな表情にフェルナーは度肝を抜かれていたが、見慣れていないヴィクトールには仏頂面との違いが分からず、緊張して青ざめたままだった。おいおい、坊や。わからなくっても無理はないが、今日ほど慈悲に満ちてる軍務尚書はそうそう拝めないぞ。いつもはこんなもんじゃないんだ。

「よく来た、ビッテンフェルト君。軍曹待遇だという話は、フェルナー中将から聞いたかな」
「…………は、はい」
「けっこう。ここにいる間は、中将が君の上官になる。短い間だが、帝国の軍人として恥じぬ働きをするように」
「はっ……がんば、えと、微力を尽くし……ます」
「うむ。頑張りたまえ。フェルナー、よく面倒をみるように」
「はっ」

 なんてこった。デレ率300%ではございませんか、閣下。いつもお仕えしている小官にも1%でいいから分けて欲しい。

「……よし、ではビッテンフェルト軍曹。さっそく仕事をしてもらおうか」

 様々にめぐった心中をおくびにも出さず、フェルナーは、にこやかに笑みを浮かべたままヴィクトールへ声をかけた。軍務尚書への挨拶を終えたヴィクトールがホッとした様子で応じ、フェルナーのあとに続く。

「君には『稟議承認手続き』をひとつ、やってみてもらう」
「『りんぎ』?」
「『稟議』というのは、なにか、重要な決定について、組織のおえらいさん方のオーケーを頂くために書類を回して確認すること。高い買い物だったり、業者との契約なんかのオーケーを貰うときに必要になる」 
「はあ」
「ここに、ある艦隊の備品購入を依頼する稟議書がある。こいつはまだ決済されていないから、このままだとこの艦隊は欲しいものを買えない。貴重な国庫の予算を使って、私物や、余計なものを買おうとしていないかチェックしなきゃならんからな」
「へえ……」
「誰にサインを貰わなきゃならないかは、すべて書いてある。全部そろったら軍務尚書に見せて、問題なければ、尚書閣下が最後にサインしてくれる。そしたら任務完了だ。結構あちこち回らなきゃならないが、できるかな?」
「もちろん、できますよ。スタンプラリーみたいなものでしょう」
「ああ。きっと、やりがい抜群のスタンプラリーになるぞ。これを、そうだな……とりあえず、今日一日、時間をあげよう。夕方、定時になるまでに終わらなければ、一度戻ってくるように。残業させてはいかん決まりでね」
「サインを頂く方々は、そんな遠くにいらっしゃるのですか?」
「うんにゃ。執務室は、みんなこの軍務省庁舎か、近くの建物の中にある。電子署名を貰えばいいから、ヴィジホンかメッセージでサインを依頼できたら会わなくても構わない」
「なら、夕方までなどかかりません。昼までには終わらせます」
「そいつは頼もしい。よろしくな」
「はっ!」
「そうそう。昼休憩は必ずとれよ? きみを休まず働かせてしまったら、上官であるおれが軍務尚書に大目玉をくらう。12時のチャイムが鳴ったら、勝手に休んでいいのでメシ食って1時間休憩。わかった?」
「はい」
「よし。それじゃ、いってらっしゃい」
「はっ!」

 書類を片手にヴィクトールが部屋を出ていく。足取りは力強く、やる気に満ちている感じだ。話によると、あまり乗り気ではなかったそうだが、はじめて軍務に携わることには変わりないので、やる気になっているのだろう。かわいいもんだな。
 しかし、はたして今日中に終えられるかな? フェルナーはニヤリとした。書類仕事をなめているところは、さすが、猪提督の子息といったところか。

「お手並み拝見だ」

***

「項目Cと項目Kに不備があるので、承認は出せないな。申請元に連絡して、確認をとってくれ」
「ええ!?」

 てっきりすぐにサインしてもらえると思っていたヴィクトールが呻く。彼に応対した担当官が苦笑した。

「そりゃあそうだよ。不備を確認するために、これだけの人の署名が要るんだから。不備があったら、差し戻すとも」
「そんなぁ……」
「ま、運が悪かったね。ほとんどは通るんだけど、ここの艦隊は、ちょっと、申請不備が多くてねぇ……」

 申請元の艦隊欄には識別番号が記載されているだけだったので、初仕事のヴィクトールには、その番号が『黒色槍騎兵艦隊』を示すものであることに気づかなかった。