オーベルシュタインの娘
その12

「申請元への連絡は総務を通すように。ん? 理由? 癒着の防止だよ。お互い、誰か分からないようにする決まりだ」

 ヴィクトールは、記載に不足のあった点について丁寧に尋ねる文をつくり、『軍務省総務 担当官』名義でメッセージを送付した。そして、総務課で椅子を貸してもらい、1時間ほどそこで返事を待った。待っている間、総務課の事務官たちを眺めていると、たえずテキパキと何かしら作業に励んでおり、『後方とは忙しいのだな』とヴィクトールはボンヤリ考えていた。
 父はよく、デスクの前で生きている軍人など名ばかり、ダラダラと書類仕事をしながら菓子を食っているのだ、と言っていたが、そんな余裕はなさそうだ。
 事務官たちは忙しなく、軍艦乗りのオペレーターがレーダーに目を走らせるように書類を物凄い速度で読み、カカカカカッとキーボードを叩く。腕時計からでも出し入れできる浮遊型センサーディスプレイパネル式キーボードではなく、古くからある物理装置式キーボードが愛用されている理由は、目を向けずともキーの位置を把握でき、入力効率が段違いだからだと云う。
 たしかに、お菓子はあった。時折、画面から目を背けぬままで事務官が口に菓子を投げ込む。その咀嚼風景には、『補給』という単語がしっくりくるように思われた。
 なるほど、ここは戦場だ。平穏なる時も平穏ならざる時も絶えず存在する戦場だ。彼らは確かに軍人であり、しかも、ベテランの戦士である。
 待っている間、お菓子を分けてくれた下士官が「いつもこんなに忙しい訳じゃないんだよ?」と語って微笑んだが、ヴィクトールは直感的に『嘘だ』と思った。

 ようやく帰ってきた返事に含まれていた、不足の追加情報と一緒に送られたメッセージは、不足のある申請を出してしまったことへの謝意に満ちているとは言い難いものであった。最低限の礼節は守られているが、要するにこうだ。『それくらい直しておけ』、『くだらん事で呼びつけるな』、『後方勤務が生意気を抜かすな』。
 ヴィクトールが、彼の髪ほど明るい色に顔色を変え、怒りにブルブルと打ち震えた。「いつものことだから気にしないで」と、彼を手伝った担当官が慣れた様子で言ったが、ヴィクトールは気にしないでいられなかった。
 怒りのオーラを撒き散らしつつ、ヴィクトールは、それに対する返信を書き綴ると、担当官に押し付けて「これを送ってください」と頼んだ。担当官が、嫌な予感しかしないと思いつつそれを査読する。

「……まじで? 送るの?」
「お願いします」
「……もし、誰が送ったのかって問合せがあるようなら、教えないといけないんだけど……」
「構いません。おれ……小官が送ったと云ってください。それと、『顔を合わせたければ受けて立ちます』とも」
「まじで?」
「家訓ですから。『人を褒める時は大きな声で、悪く言う時はより大きな声で』」

 テキストメッセージなので大きな声にはできませんが、と続けるヴィクトールに、担当官は、わかった、と苦笑しながら応じ、喧嘩のバーゲンセールと題して相違ない内容の文面をそのまま相手側に送付した。いちおう、問合せのない限りは差出人名を挙げない決まりなので、誰が書いたものかは明記しない。
 必要な情報を手に入れたので、返事があれば転送してくださいと言い残してヴィクトールは去っていった。十代の見習い士官が去ったあと、すべての関係者の正体を知る担当官は、もし本当に対峙することになったらどうなるか、を想像し、肩をプルプル震わせ、声を低くしつつ笑った。

***

 ひとりで朝のコーヒーを煎れ、盆に並べて執務室に持ってきたベアテは、ディスプレイに向かって顔を真っ赤にしながら怒りに震えているビッテンフェルト提督を目にした。

「どうなさいました」

 普通の学生であれば怯えそうな光景であったが、ベアテは、どうでもよさそうに淡々と尋ねつつ、彼の前にコーヒーカップを置いた。

「……こ、……っ!! なんと生意気な! 後方勤務の事務官の分際で、このおれに何という口の利き方を……!!」
「事務官から?」
「つい先日出した書類に不備があったというので、忙しい合間をぬって返事してやったのだが……それに、こいつ……!!」

 読み上げることすら忌々しい、とばかりにビッテンフェルトが画面を指差したので、ベアテは、横から画面を覗き見た。

『おそれながら、閣下は、申請記載に不足がある以上に、帝国軍人としての自覚に欠けるとお見受けします。己の失敗すら受け入れられぬ軟弱者に、先刻のメッセージで自称なされたような武人の心があるとは思えません。ひとたび戦火が上がったところで、反省なき閣下は失敗を繰り返し、陛下の軍と艦を無為にそこねることでしょう。平穏な今のうちに退役なさることをお勧めします』

「これはまた……先に何をお送りになられたのか存じませんが、挑戦的ですね」
「このおれに武人の心がないだと……!? 退役しろだと!? 自分の名前も出せん事務官ふぜいがよくも!」
「それは規則です、閣下。多額の金銭が動く事になりますから、癒着を防ぐため、担当官の名前は挙げず、こちらの申請者も明かされないようになっています。ただし、もし、問題のある対応をされた場合には、手続きにより担当官を明らかにすることが可能です」
「そうか! よし……ならば、オーベルシュタイン軍曹、軍務省へこいつの正体を明かすよう連絡してくれ。……成程、向こうも誰に喧嘩を売ったか知らんわけか。おれに会えとも伝えろ! この生意気な奴に、誰に喧嘩を売ったかとくと思い知らせてくれる!」

 横で、オイゲンがハラハラと見守っている。
 ベアテは、なんとなく、このメッセージの差出人に検討がついていた。彼女の記憶からすると、軍務省の事務官たちは、艦艇乗りたちの安い挑発にいちいち乗るほど暇ではない。とすれば、このメッセージを送った人間は、一時的に軍務省で働いている人間である。そのような人間で、しかも、こんな文面を作りそうな人物といえば、ベアテには心当たりが一人しかいない。
 まあ、大事にはならないであろうし、双方、どう反応するか私も知りたい。話の種に教えれば、フェルナー中将あたりが笑い転げそうだ。

「御意」

「えっ!」と呻くオイゲンをビッテンフェルトが「命令通りに!」と制し、ベアテは、自分に割り当てられたデスクへ向かい、端末を立ち上げ、『失礼な総務担当』の正体を問う、一分も不足のない完璧な申請を作り、軍務省へ送付した。ほどなく、『担当は“望むところだ”と言っている』との旨が返ってきたので、それをそのままビッテンフェルトへ伝える。

「事務官のくせに威勢の良い奴だ。その意気や良し」

 日時を取り決め、軍務省の応接室にてと約束を取り付けると、ビッテンフェルトは満足げに笑い、生意気な事務官を震え上がらせてくれると豪語した。

 オイゲンが胃を押さえる。ベアテは、表情をまったく動かさず平然としていた。

***

「んー……負担元コードが違うな。まあ、この品目ならXXXだね。直してまた持ってきてくれる?」
「課長、出張でねーー……まあ、確認は私がしよう。署名は、課長がメッセージに気づいてくれて、余裕がもしあればしてくれるだろう」
「この人、今日休みなんだよね。急ぎ? 情報管理課に言って、代理承認扱いにして貰えれば何とか」

 その後の進展もかんばしくなかった。ヴィクトールは、ひとつの署名のたびに何かしらの問題にブチ当たり、フェルナー中将が言うところの『やりがい抜群のスタンプラリー』のうち、『やりがい抜群』の部分を存分に味わう羽目になっていた。あきらめて昼食をとり、1時間したらすぐ続きに取り掛かったが、二時を過ぎ、四時を過ぎてもゴールに辿り着かなかった。
 総務から連絡の取り次ぎを受けたとき、ヴィクトールは『暇人めが』と、正体不明の艦隊提督へ向けて内心で悪態をついた。

 だが、奇跡的に五時十五分、定時の十五分前にすべての署名が揃い、ヴィクトールは軍務尚書執務室へと戻ってきた。

「そろえたの? すごいね!」

 尚書閣下の横で仕事をしていたフェルナー中将が翠の目を見開き、明るい声で褒めた。相変わらず子供あつかいが勘にさわるが、本当に大変だった。

「軍務尚書。確認をお願いします」

 重厚な木のデスクの上に、ヴィクトールが稟議書を差し出す。オーベルシュタインがそれを受け取り、低く駆動音を響かせつつ、ものすごい速さで義眼の眼差しを書類全域に走らせた。1枚目、2枚目、3枚目と次々めくり、不備がないか確認する。ヴィクトールは、緊張でゴクリ、と唾を飲んだ。意識的に呼吸しないと、息を止めてしまいそうだ。

 オーベルシュタインが万年筆を取り上げ、サラサラ、と、最後の欄に日付と署名を記した。仕上げに、軍務尚書印をその横に押し、赤のインクでクッキリと印影を残す。

「ご苦労」

 オーベルシュタインが目をあげ、ヴィクトールに声をかけた。それと同時に、本日の定時を告げるチャイムが鳴り響く。間に合った! 成し遂げたのだ。

「やっ……たァ!」

 軍務尚書の前であることを忘れ、ヴィクトールは思わず歓声を上げた。はたと気づいて「すみません」と謝ったところ、軍務尚書は「かまわんよ」と平坦に応じた。

「慣れないことをして疲れただろう。まっすぐ帰って、実家でゆっくり休みなさい」
「はっ!」

 ヴィクトールがピッと右手をあげて敬礼する。たいへんな一日だったが、達成感を得た彼の顔は晴れやかだった。軍務尚書が「これは私が預かる」と言って書類を引き取り、ヴィクトールは初日の勤務を終えて帰っていった。

「…………行ったか?」

 彼が出ていってしばらくのち、オーベルシュタインがフェルナーに尋ねた。

「ええ。もう玄関に下りた頃では?」

 それを聞くや否や、オーベルシュタインはガタガタと引き出しを漁って何かを取り出すと、カチカチと鳴らして素早く振った。
 彼の手にあったものは、修正液だった。

「……おや。おや、おや? 閣下? まさか、御自ら書類の修正をなさるおつもりで? これ一通にかかる人件費がすごいことになりますな」
「これは私が承認した。したがって、まだ不備があるなら其れは私が見落としたものだ。私のミスを私が直して何の不都合がある」
「『見逃してあげた』のでしょう? なんとお優しい。おかしいと思いましたよ、軍務省名物『軍務尚書御百度参り』の洗礼を受けずに一発承認だなんて」

 フェルナーがいたずらっぽく笑いながら言う。軍務省に正式配属された新人、または、転属した事務官に必ず待ち受けるとされる『最後にして最難関、鬼の軍務尚書、地獄の差し戻しラリー』、俗に『軍務尚書御百度参り』などと称される洗礼は、オーベルシュタインの義眼にかなう完璧な書類が作れるようになるまで続く恒例イベントとなっていた。

「百は多すぎだろう。多くとも十回ほどだ」
「それが十件あれば百にもなりますよ。よろしかったのですか、ビッテンフェルト軍曹については?」
「……子供には、成功体験が必要だ。彼が、『できた』、『やり遂げた』と感じた経験を足がかりに自信を持つことで、失敗も受け入れ学び、越えていく力を得られる。おまけに、素質十分で元帥の子息だ。投資価値も申し分なかろう」
「さようでございますか」

 オーベルシュタインが修正液をあちこちに塗りつけ、その上から几帳面な文字で適切な文面を書き込んでゆく。修正箇所はちょっとやそっとではないようで、この分でいくと、まっさらから書き起こしたのとそう違わない代物になりそうだった。

「小官も、1%でいいので、閣下のやさしさのおこぼれに預かりたいものですな」

 さして期待するでもなくフェルナーがぼやいた。「そうしたら、この後の残業もがんばれそうですよ」などと続けつつ、まあ無視されるだろう、とディスプレイに目を戻す。
 カタン、と軍務尚書が立ち上がった音がした。ふいに照明が遮られ、オーベルシュタインが目の前に立っていると気づきフェルナーがビクリとする。なんだ?
 コトン、と、フェルナーの前に軍務尚書が何かを置いた。……チョ〇ボールだ。

「やる」

 そう一言告げると、軍務尚書はとっとと自席に戻り、修正の続きに取り掛かった。久々に娘が家にいるので、彼も早く帰ることにしているのだ。

「わあ~♡ ありがとうございます、閣下♡」

 意図的に声を高くしながらフェルナーが礼を言う。ガサガサと箱を開け、『軍務尚書のやさしさ1%』チョコ〇ールを一粒、口に放り込んだ。安っぽい味だが甘く、事務作業に疲れた頭に糖分が染みる。
「彼にあげようと思ったのだが、子供あつかいを嫌がる年頃なので止めておいた」などと聞こえてきたが、フェルナーは聞かなかったことにしてスルーした。

***

 ベアテとヴィクトールが職場体験に出てから数日後、ビッテンフェルト元帥が軍務尚書に喚いた。

「オーベルシュタイン! 貴様いったい、おれの息子に何をしているのだ! 最近、ヴィクトールが『月次報告は二週間前には出してくれ』だの『負担元コードをよく確認してくれ』だのと細々口出ししてくるようになったぞ!?」
「別に何も教えていないが」
「ウソをつくな!」
「卿に嘘をついて何になる。彼は、フェルナーの部下だ。『おはよう』と『ご苦労』くらいしか私は話しかけておらぬ。それより、近頃、娘の声がやたら大きくなった気がするのだが、卿の仕業か?」
「それに何の問題がある!?」
「…………卿の艦隊と卿の家の外では問題があるのだ。私の家は静かなのだぞ。『うるさい』などと云いたくないというのに、近ごろ耳鳴りがしてきた」

 ああ……お互いに影響を受けている。すでに卒業済みのフェリックスを子に持つミッターマイヤー元帥は、第三者目線で面白そうに彼らの言い争いを眺めていた。

***

「それで? 対面した猪親子はなんて?」
「は。二人とも相手が待ち人と気付かず、お互い、相手が来ないことに腹を立てつつ、和気あいあいと会話しておりました」
「ブフッ……それで?」
「定時のチャイムが鳴り、お互い『相手が来なかった。怖気付いたに違いない』と判断し、ビッテンフェルト元帥と軍曹は、せっかくだから親子で食事をして帰ると言って帰られました。私も定時でしたので、『直帰してよいのでせっかくだから軍務尚書と帰れ』と命ぜられ、父と合流して帰宅しました」
「一緒にいたの? 気づいてた? 教えてあげなかったの?」
「感づいておりましたが、聞かれなかったので黙っておりました」
「はははっ!」

 週末、オーベルシュタイン家に遊びに来たフェルナーは、ベアテから事の顛末を聞き、腹を抱えてゲラゲラと笑っていた。