オーベルシュタインの娘
その15

 ヴィクトールがピンクのチューリップを差し出すと、ベアテは無表情でそれに視線を注いだ。ヴィクトールの鳶色の目に視線を合わせ、無言の問いを投げかける。

「……『いっしょに踊りませんか』」
 八歳になった二人は、軍人の高官たちを含む、帝国の重要人物とその家族たちが招かれたダンスパーティの場にいた。ヴィクトールが顔をしかめているのは、本当は、向こうにいる貿易商の美しい令嬢たちと踊りたかったのか、それとも、ベアテに断られるかもしれない不安からだろうか。
 ベアテは、チューリップを受け取り、ダンスの誘いを受け入れることにした。

 ダンスの時間が終わったあと、ヴィクトールは、これまでで一番上手く踊ることができ、晴れやかな顔をした。仏頂面のまま(なかなかのステップで)付き合ってくれたベアテに目を向ける。

「どうだった!?」

 明るい声で尋ねる。だが、ベアテの返事は冷ややかだった。

「下手だな」

 ヴィクトールが固まった。数秒後、細面の顔が怒りで真っ赤に染まる。

「お前なんか二度と誘うか!!」

 周囲の参加者が声に驚く。ヴィクトールは踵を返し、パーティ会場を走って出ていった。

***

 座学の内容がまるで頭に入らぬ様子で、ヴィクトールはうんうんと悩んでいた。

 友人と遊んでいて、ゲームに負けたので罰ゲームをすることになった。その内容というのが……あのオーベルシュタインの奴をデートに誘い、承諾されたらデートに行くというものである。
 あいつをデートに誘うなど冗談じゃない。しかし、敵前逃亡などしてはビッテンフェルト家の名折れだ。どうせ、あいつは今まで一度も告白に応じたことがないそうだし、デートに行ったという話も聞いたことがない。誘うまでは仕方ないとして、どうせ断られるであろうから、デートは免除されるだろう、ということだけが唯一の救いであった。
 ヴィクトールがチラリ、とベアテを見る。ベアテは、脇目もふらずに前方ディスプレイと教師の側を見ていた。
 顔はそうだな、悪くない。だが、体はぺたんこだし、性格ときたら酷いものだ。なぜ、あんな女にどいつもこいつも……。

 ぶるぶる、とヴィクトールが頭を振る。そんなことはどうでもよい。おれは、おれの罰ゲームを約束通りこなすだけだ。

***

 とことことこ。

 ベアテが帰路を進むと、後ろにいるヴィクトールも同じだけ前へ進む。ベアテが振り向く。すると、ヴィクトールは目をそらす。ベアテがまた前へ進むと、ヴィクトールもまた前へ進む。

 とことことこ。ぴた。とことこ。ぴた。

 不信げに眉をひそめ、見かねたベアテは口を開いた。

「用事があるなら早く言え。ストーカーで訴えられたいか」
「むぐっ……だ、だれが貴様のストーカーなどするか!」
「よくされるが、お前ほどあからさまなのは中々ないぞ。どこからどう見ても文字通りストーカーだろうが。何の用だ、一体」

 ぐっ、とヴィクトールが呻き、黙り込む。ベアテが目を細めて睨む。ヴィクトールは、後ろにいる友人たちをチラリ、と見やり、『こんな状態でデートに誘うだと?』と考えた。
 いや、むしろ好都合だ。これなら、断られるに違いない。ヴィクトールは意を決し、息を大きく吸い込んだ。

「デートに誘いにきた!」

 よし、言った!

「……デート?」

 ベアテが首を傾げた。まあ、だろうな。

「デートとは、あのデートか?」
「ほかにどんなデートがあるのだっ!」
「…………そうだな……」

 ベアテが考え込む。なんだか様子がおかしいな、とヴィクトールは思った。こんなもの即座に断わられると思っていたのに、妙に、オーベルシュタインの歯切れが悪い。
 しばらく思案したのち、ベアテは答えた。

「いいぞ」

 ヴィクトールは目を瞬かせた。イマ、ナンテ?

「で、いつ、どこに行けばいい」
「……え、あっ……ま、まだ決めていない」
「なんだそれは」
「し、仕方なかろう! ことわられると思っていたのだ!」
「ますます『なんだそれは』だな。では、決まったら連絡しろ。私の気が変わらないうちに、早急にな」
「…………お、おう。わかった」

 なんだかおかしなことになった。何事もなかったかのように去っていくベアテを見送りながら、ヴィクトールは混乱して突っ立ったままでいた。隠れていた友人たちが出てきて、やったな、やるじゃないかあのオーベルシュタインをデートに誘えた奴はお前が初めてだぞ、と称賛して背中を叩く。

 くそ。なんで誘いに乗るのだ、オーベルシュタイン……! きさまは、誰に誘われても断るのではなかったのか。よりにもよって、罰ゲームで誘っただけなのに、乗られてしまうとは……。
 もし、オーベルシュタインが本気にしているのであれば、『本当は罰ゲームでした』などと男の風上にも置けない発言をする訳にはいかない。だが、実際そうだ。好いてもいないのに好いているフリなどできない。そんな嘘は、あいつなら確実に見抜く。どうすればよいのだ……。

***

「ベアテちゃん? 何かあった?」

 女子寮の談話室に戻ったベアテを見て、トモコが声をかけた。ほとんどの人間にとって、オーベルシュタイン家の微細な変化は誤差範囲にしか思えないが、付き合いが長くなると、これが見分けられるようになってくる。

「……さっき」
「うん」
「ビッテンフェルトが、デートに誘ってきた」
「えー!?」

 トモコが驚きに声を上げる。その声は、いかにも楽しげであった。恋バナの気配を嗅ぎつけ、目をらんらんと輝かせる。

「それでそれで?」
「受けた」
「キャー!」

 トモコが顔を覆う。なんだその反応は、とベアテが返した。トモコの謎の動作は一瞬だけに留まり、トモコはすぐに顔から手を除け、黒い瞳をキラキラさせてベアテを見つめた。

「ベアテちゃん初めてじゃない? そういうのオッケーしたの!」
「ああ」
「どうして? もしかして、ビッテンフェルト君のこと……」
「そういう訳じゃない」
「えー??」

 トモコがニヤニヤしながら疑念を呈する。ベアテは、むすっと眉を寄せ、「長い付き合いなので、少々借りがある。それだけだ」と続けた。だが、トモコの表情は変わらない。

「いつ? どこにいくの?」
「さあな。決めていなかったんだと」
「あはは。それじゃ、デートまでに、服やアクセサリーをそろえておかないとね」
「何故そんなことをする必要が?」
「それは、だって、デートだもの。おめかししていかなくちゃね」
「そうなのか?」
「そうだよー。あ。ベアテちゃん、メイドさんに来て貰ったら?」
「そこまでするのか?」
「ベアテちゃん、自分で髪結うの苦手だしね。きっと、理由を話したらすっ飛んできてくれるよ」

 半信半疑のままベアテが生家へ遠距離通話をかけてみると、トモコの言ったとおり、マリーは、『デート』という単語を聞くや否や『すぐに伺いますわ!』と答えて通話を切ってしまった。……父上に迷惑がかからねばいいが。

「ところで」
「ん? なーに?」
「……ビッテンフェルトは、『デート』という単語の意味を正しく理解していると思うか?」
「ベアテちゃ~ん、さすがに失礼だよ~?」
「もしや、『休みの日に試合をする』などの意味で言ったのではないかと」
「ないよ。ないよ」
「そうか」

***

 一般市民に紛れて街を歩くため、今日のヴィクトールは、街の若者が着るような服を着てきていた。とはいえ、父親と違い、生まれつき裕福な元帥家の息子であるので、特に高級よりのブランドをセンス良く組み合わせて身に着けている。彼の父親が率いる黒色槍騎兵艦隊をイメージした、黒を基調としたコーディネートを街のウィンドウ越しに見て、『プロはすごいな』とヴィクトールは心中で使用人たちを賞賛した。帰りにお土産を買って、フェザーンから来てくれた彼らにお礼に贈ろう。

 待ち合わせ場所に着くと、予想通りオーベルシュタインらしき人影があった。遅れてはいまいな、と時計を見ると、やはり10分はやい。あいつめ、いつもいつも俺の先を越しおって。一体いつから来ているのだ。
 待ち合わせ時刻より前なのだから、どれだけ待っていたとしても謝らんぞ。そんな文句をつけてやろうと心づもりしつつ近づいていったヴィクトールは、こちらを振り向いたベアテを見て硬直した。

 普段は軍規に基づき、無化粧・華美な装飾なしで過ごしているオーベルシュタインが、休みの今日はそれらを身に着けてそこにいた。普段とまったく印象のちがう彼女の姿に、ヴィクトールは言葉を失った。
 ゆるくウェーブのかかった白髪交じりの焦げ茶色の髪は、今日は縛らず下ろしている。ハーフアップにして留めた髪には、サーモンピンクで厚手のリボンがついていた。顔には自然な化粧が施され、いつもより肌色が明るい。首からは小さなペンダントを下げている。フェミニンでシンプルなワンピースが、規律正しい彼女を表していつつ、女性らしい魅力を最大限引き出してもいた。

 きれいだ。無意識にそう感じてしまう。何を考えているのだ、おれは!? 相手は、あのオーベルシュタインだぞ? こんな、女らしい格好など……卑怯だ! なにが卑怯なのかはわからんが。最近は、幼年学校にいるから軍服の姿しか見ないだけで、元々、とりたてて男の格好をする奴ではなかったし……。

「どうした」

 ベアテに声を掛けられ、はた、とヴィクトールが我にかえった。自分に気づいたベアテが目の前に立っている。ヴィクトールは慌てて何か言おうとしたが、喉の奥で言葉がこんがらがって出てこない。

「まず、ここから三本向こうの道沿いにあるカフェに向かうのだったな。行くぞ」

 そっけなく指示を出すと、どぎまぎするヴィクトールを放置して、ベアテはさっさと先に行ってしまった。それを、ヴィクトールが慌てて追う。
 ぴたり、と、不意にベアテが立ち止まった。あんまり唐突だったので、ヴィクトールはうっかり後ろから追突しかかった。

「なんだ!?」

 ようやく声を出すことができ、ヴィクトールの第一声が放たれる。ベアテが肩越しに振り返り、答えた。

「その服、似合っているな」

 ボッ、と、湯気が出そうなほどヴィクトールの顔が赤くなる。彼のリアクションすらまるで気に留めず、それだけ告げると、ベアテはさっさと歩みを再開した。

 ほほえましい初デートに臨む彼らの後ろには、それらを見守る目が何組か存在していた。

***

 勤務を終えて帰宅したオーベルシュタインは考え込んでいた。娘の世話係として長く雇っているメイドが、突然、短期の休暇がほしいと言ってきたのである。

 亡きラーベナルトに代わって執事となった彼の息子も居ることだし、ここにいない娘の世話役がいなくとも屋敷の世話は十分なのだが、『プライベートなので言えない』という休みの理由が引っかかった。どれだけ平和に見えても、この家は、帝国の中枢の1人とその家族が暮らす家だ。いつ、何人に狙われてもおかしくはない。よく仕えてくれているメイドのプライバシーを侵害するのは気が引けるが、帝国の安全のため、休むのはよいが、その動機については調べさせて貰う。

 調べた結果、悪意には程遠い理由であったのでオーベルシュタインは安心した。その代わり、帝国の安全にも家族の安全にも関わりないが、個人的な興味のために気になって仕方がない事情が明らかとなった。それを知るべき正当性を何一つ自分は持たない。だが、困ったことに、野次馬的な単なる興味関心のために気になって仕方がない。

「どうかなさいましたか、旦那様」

 若きラーベナルトJr.が声をかける。彼に相談するか? 一瞬、オーベルシュタインは考えたが、心の中で首を振った。秘密を守れる忠実な執事に相談するのは悪くないが、自分より遙かに年下の彼に悩み相談することはどうにも気が引けた。
「なんでもない」と応じたのち、オーベルシュタインは、亡き老執事の次に付き合いが長く、そこそこ信頼をおく者に相談してみることにした。

『はい、閣下。どうなさいました。何か、緊急の問題でも?』

 フェルナーに呼び出しをかけてみると、ヴィジホンはただちに繋がった。くつろいでいる最中だったのか、ラフな部屋着姿で、銀髪は乱れて整っていなかった。

「いや。緊急でも仕事でもない。私的な用件だ。都合が悪ければ断ってくれて構わない」
『とんでもございません。閣下が、“私的な用件”で小官にヴィジホンをくださるだなんて……! それで、どうなさったのでしょうか』
「うむ。……実は……今度の週末、オーディンにいるベアテがデートに出かけるらしいのだが」
『承知しました!』

 プツン。唐突にヴィジホンを切られ、フェルナーの顔が画面から消えてしまった。オーベルシュタインはパチパチと義眼の目をしばたたかせた後、もう一度、副官へリダイアルした。……出ない。

「なにを承知した?」

 受話器を片手にオーベルシュタインが呟いたが、ヴィジホンは何も答えない。自分は、とんでもない悪手をとってしまったのではないか、と、彼は思った。

***

「チッ……! 子猪め、まさか貴官だったとは。部下として可愛がってやったというのに、ベアテお嬢さんに手を出すとは……! お任せ下さい、閣下。小官が、馬の骨、いえ、馬面の猪を追い払って差し上げますよ」

 初デートに臨む二人の後ろ、オープンカフェの席の一つに座り、尾行調査にも工作にも長けたベテランの軍人が絶妙な変装で街に溶け込み、新聞を見ていると装いつつ、二人を油断なく監視していた。

「くっ……! ヴィクトールが何にそわそわしているのかと思えば、オーベルシュタインめ……! 娘を使って、おれの息子を誑かそうというのか!? そうはいかんぞ!」
「普通に当人たちがデートしたいだけかもしれませんよ、閣下。あと、お声が大きすぎます。抑えて下さい。くれぐれも、早まらないでくださいね」

 オレンジ頭の提督と彼の参謀が、サングラスにマスクという怪しすぎる変装をして、デートに臨む二人の後ろの物陰に隠れていた。

 各所に仕掛けられた監視カメラ網を通じ、ベアテの様子を影からひっそり伺っていたオーベルシュタイン(父)は、彼らすべてを発見していた。そして、うんざりした様子で顔を掌で覆っていた。私も人のことは言えないが、揃いもそろって、まったく……。

 ちなみにその時、あれほど乗り気だったはずのトモコは、友人のデートのことなどすっかり忘れ、狙いをつけていた全く違う地域にある喫茶へ行き、おいしい紅茶とケーキを楽しみ、趣味で作っている食べ歩きブ○グに投稿するレビューを書き留めていた。