オーベルシュタインの娘
その17

『罰ゲームデート』の後、ヴィクトールとベアテが会話する機会が多くなった。正確には、ヴィクトールがケンカ腰なしに話しかけられるようになった。
 そうした彼の様子を見て、ヴィクトールの友人たちは『しめた』とばかりにニヤニヤしていた。あのオーベルシュタインが気になって気になって気になって仕方がない様子のビッテンフェルトの背中を押してやる機会を、友人たちはひっそりと狙い続けていたのである。
 しかし、そんな彼らの努力をブチ壊しかねない事件が起こってしまった。

「そういえば、お前の母上を見たことがないな、オーベルシュタイン」
 ヴィクトールが何の気なしに尋ねると、ベアテは押し黙った。その場に居たトモコや、ヴィクトールの友人たちが嫌な予感を覚える。
「授業参観でも見たことがない。身体でも悪いのか?」
「……いや」
「うん? 何だ。たまたま喧嘩していたとか?」
 ヴィクトールが揶揄するように言う。彼の友人たちが青ざめた。よせ、それ以上いけない。
「いない」
「えっ」
 やっぱり。察しろ猪! と、友人は心の中で彼を責めた。
 しかし、ベアテはちっとも気にとめた様子もなく続けた。
「いないという事に今気がついた。そうだ、私にも母親がいるはずだな。生死や居所はともかくとして」
「……気づいていなかったのか!?」
「ああ」
 それを聞いた教室中の生徒達がズルリとよろけた。

「我が家に足りないものがあるなど、考えもしなかった……」
 子守りのメイドのマリーがいて、執事のラーベナルトがいて、犬がいて、そして、父上がいらして。
 オーベルシュタイン邸に足りないものがあるだなどと、ベアテは、このときまで本当に思い至らなかったのである。

***

「マリー、マリー」
「はい。なんでございましょう、お嬢様」
「私の母上を知っているか?」
 休みに帰ってきたベアテ嬢の質問を受け、マリーは、喉を絞められたように押し黙った。数秒後、やっと絞り出すように答えを口にする。
「……ええと、わたくしは存じ上げませんわ。わたくしが雇われたときには、奥様は、すでにいらっしゃいませんでしたから」
「亡くなったのか?」
「存じませんわ」
「それも分からないのか?」
「だって、そんなこと聞けませんでしょう」
「そうか」

***

「ラーベナルト、ラーベナルト」
「はい。どうなさいました、お嬢様」
「私の母上のことを知らないか?」
 ラーベナルトは、マリーと似たような感じで押し黙った。そして、ためらいつつ答えを紡ぐ。
「お亡くなりになられたと伺っております。詳細は、旦那様から直接お話いただいたほうがよろしいかと……」
「わかった」
「あ。お待ち下さい。どうなさるおつもりで」
「父上にお伺いする」
「そ、それはご勘弁くださいませ。デリケートな話題でしょうから、もっと、その、旦那様が傷つかれぬよう穏便に」
「父上はその程度で傷つかれる御方ではない」
「そうかもしれませんけれども」
「私が知るべきではないならそう仰る。そうでなければ、お話し下さる。父上がお決めになることだ」
「……はい。失礼しました、お嬢様」
「ゆるす」
 ベアテが嵐のように去って行く。若きラーベナルトJr.は己の無力を嘆いてうなだれ、
「父さん。オーベルシュタイン家の方々にどのように仕えておられたのですか」
 と、亡き父へ尋ねるようにひとり呟いた。

***

「父上」
「なにか」
「お伺いしたいことがございます」
「なんだね」
「私の母上のことを教えて下さい」
 オーベルシュタイン(父)は新聞から目をあげ、戸口に仁王立ちしているベアテへ義眼の視線を向けた。
「おまえの母の何を知りたい」
「なんでも。名前はなんというのか、どういった生い立ちの方だったのか、生きているか死んでいるか、生きているのであれば何処におられるのか、死んでいるのであれば何故どのように亡くなられたのか、そして、どのような人柄の方であったか」
「そうか……」
 オーベルシュタインはそう応じると、呼び出し機を通じてラーベナルトにお茶を持ってくるよう申しつけ、書斎のソファにベアテを座らせた。お茶を持ってきたラーベナルトに礼を言い、下がらせて扉を閉めさせると、彼は娘と向き合った。
 そして、口を開き、語り始めた。

「名前はわからない。知らされた名は、偽名であったから。生い立ちも分かっていない。伝えられた出身地には、彼女に相当する人物がいたという記録がなかった。彼女はもうこの世にいない。私を暗殺しようとして失敗し、私が返り討ちにしたからだ。人柄は……そうだな。静かで、賢かった。この私を相手に、数年間にわたって自身が暗殺者であることを隠し通し、死して今なお、みずからの情報を一切あきらかにしない……。大した女性だった」

 衝撃的な説明に対し、ベアテは、少々両目を見開いた程度の反応しか見せなかった。だが、それは、オーベルシュタイン家の基準でいえばかなり驚いている反応であることを、同じ血を引く父親は理解していた。
「使用人たちには少々刺激が強い話なので、彼らには詳しく話していない。だが、お前には話しておくべきだな。……もう少し、詳しく聞きたいだろう。順を追って説明しよう。お前の母親の話を……」

***

 私はそもそも、子供を持つ気はなかった。

 オーベルシュタイン家は、私の代で断絶させるつもりでいた。ゴールデンバウム王朝が与えた特権階級など、ひとつ残らず消えてしまう方が良い。それに、私の障害を、何の罪もない子供に引き継がせてしまう可能性も懸念していた。
 家庭を持つことを考えるようになったきっかけは、初代皇帝ラインハルト陛下の崩御の折、死ぬつもりで囮となったが、生き残ったことだ。
 地球教徒どもは、私の狙い通り、私の居る部屋を陛下の寝室と思い、爆破した。だが、さすがに奴らも追い詰められ、まともな爆薬すら手に入らなくなっていたのか、軽傷で私は生き延びた。

 陛下ご逝去の報を聞いたあと、私は、自分の子供を持つことにした。
 理由はいくつかあった。ひとつは、私が生かされたことの意味を問いかけてみようと考えたこと。もうひとつは、『私自身の興味関心を、ローエングラム王朝とアレクサンデル陛下から少し離したほうが良い』と考えたことだ。

 暫くのち、私は広告を出し、妻となってくれる女性を公募した。条件は、身体が健康であることと、意思決定に責任を持てる知性を備えること、そして、子供を持つ意思があることとした。あとは、選考の中で応募者を比較し、決定を下す。
 募集には、数多くの女性たちが応募した。年齢は、年端のゆかぬ娘から、私より一回り年上の未亡人に至るまで、身分は、革命をかろうじて生きながらえた没落貴族から、時流に乗って成り上がった家の娘に至るまで、さまざまな人物が集まった。
 いずれにしろ、予想通り、私の地位や財産を目当てにする者が大半であった。もちろん、それで構わない。私の子供を産んでくれて、その子の幼少期を悪くないものにする母親をやってくれさえすれば、あとは、地位を利用しようが、破産しない程度贅沢しようが、好きにしてもらって構わなかった。給金なら、使い切れないほど賜っている。
 一定数までは書類審査、筆記試験などで振るい落とし、数を絞れた段階で直接の面接に――『見合い』というほうが適切か? ともかく、私が直接選考した。
 ほとんどは、正直期待外れだった。誰も彼も見え透いた嘘を並べ立て、『憧れていました』だの『お慕いしておりました』だのと語る。そんな訳がないだろう。こんな形で妻を募集する者が、そんな言葉を期待していると思うのか? いっそ、『宝石とドレスを好きなだけ買って、毎晩舞踏会に出られる暮らしがしたいです』とでも言えば良い。それか、私を騙すに足る嘘をついてみせろ。
 今考えると、子供を産んで貰うだけの相手に、少々、期待を持ちすぎていたかもしれんな。

 残り人数が半数を切り、公募のやり直し、あるいは中止を覚悟したころ、お前の母親に出会った。彼女は、他の者と大きく異なっていた。
 まず、ひときわ美しかった。このような募集に応じていながら、異様に美しかった。グリューネワルト大公妃殿下やヒルデガルド皇太后殿下に比べると、生命感に欠け、作り物の人形めいた美しさだった。
 次に、賢かった。これほど美しいのに他に貰い手がないなら、人間としてよほど問題があるのだろうと疑ったが、その知性に欠落は感じられなかった。打てば響くような応答ばかりが返り、居住まいも堂々としていて、大きな問題は見受けられない。しいて言えば笑顔に乏しく、『女のくせに愛想がない』と評される可能性はあったが、私と並べばそう悪くないと思われることだろう。
 選考は最後まで行ったが、結局、結婚を申し込んだ相手は彼女だった。

 聞いた生い立ちには特筆すべき点はなく、非常によくある話だった。辺境で生まれ育ち、フェザーンへ出てきて、事務職やハウスメイドなどの安月給で食いつないでいた。できれば、どこぞの紳士に嫁いで生活の安定を得たいと思った矢先、私の広告を見て、これ幸いと応募したのだという。このときの経歴も偽りだったが、関係者に金を握らせ、偽りの証跡もよく準備されていたため、なんの疑いもかかっていない段階の浅い調査ではそうと判明しなかった。
 彼女は申し出を受け入れ、我々は婚約した。

 結婚式は、少し贅沢に行った。私に贅沢趣味はないが、戦争という一大消費市場を失った帝国のために新たな市場が要る。また、期せずして、ローエングラム王朝初めての元帥婚礼となったので、あまり質素な前例をつくり、後続を萎縮させるわけにもいかなかった。それに、結婚式とは、花嫁のための催しだとも言われている。これから共に暮らす相手に好印象を与えておくためにも、多少は投資しておくほうがよいと考えた。
 招待状は、一応、皇帝陛下と摂政皇太后殿下、諸提督、その他関係閣僚すべてに出しておいた。だが、提督達が来ることは期待していなかった。彼らが、私を祝うことに積極的になる理由がない。どちらかといえば、我が家の執事夫妻と、軍務省の部下たちの慰労会がわりになれば良いと考えていた。
 しかし、意外なことに概ね全員が出席した。「軍務尚書の結婚など祝ってやりたいとは思わんが、あれと結婚するという花嫁を一目見てみたい」とのことらしい。
「凶事が起こって中止になれば面白い」という提督たちが落胆したことに、式は滞りなく進んだ。我々の結婚にあやかって幸せか正直疑問であったが、ブーケトスでは、当時未婚であった現ケスラー夫人がキャッチしていた。

 夫婦となった我々は、傍目には睦まじく見え、私は『どう手を回したのやら、世にも美しい花嫁を娶り、行いに見合わぬ幸せな結婚をした』と思われていたらしい。
 私の結婚後、花嫁捜しを全くしていなかった提督たちが一斉に動き始め、特に、ビッテンフェルト提督は鬼気迫る勢いで花嫁捜しに励んだそうだ。『軍務尚書すら結婚したというのに、これ以上独身でいてなるものか』とな。未婚率が高かった我が軍に、おもわぬ恩恵をもたらすことができた。
 だが、私自身は、それほど幸福とは思っていなかった。彼女は賢い。それゆえに、油断がならなかったのだ。
 彼女の賢い為人を知れば知るほど、伝えられた平凡な経歴に疑念を覚え、『本当の狙いは“生活の安定”などではない』と感じた。それでも、真の狙いはいずれ分かると思っていた。だがそれは、いつまで経っても読めなかった。
 たいして金を使わず質素に暮らし、夜会などに出て地位を活用する機会も持たない。ほとんど外に出ず、執事の報告によれば、日中、詩を読んだり刺繍をしたりして過ごし、外出といったら、庭に出るか、私とともに催しに出席するくらいだという。
 正直、気味が悪かった。彼女へ感じる違和感はいつまでも拭えなかった。そうした私の警戒を察してか、彼女は中々動かなかった。ようやく彼女の目的が判明したのは、ベアテ、お前が生まれた日のことだった。

 出産が始まったと知らせを受けて病院に着く頃には、お前はもうベッドに寝ていた。初めてお前を見たとき、おそらく私は、彼女に初めて隙をみせた。
 運命は大抵、私に不幸を突きつけてきたが、その時は、気まぐれに幸運をよこした。あるいは、たまたま居合わせた看護師の不運が、私の不運を上回ったのかもしれん。
 病室のベッドから彼女が放った小型銃は、通りがかった看護師を貫き、標的であった私を外した。咄嗟に振り向くと、血を噴き出し崩れ落ちる看護師と、その向こうで、ベッドから身を起こして銃口を向ける彼女の姿があった。
 受けてきた前線訓練が久方ぶりに役に立った。私は、反射的に銃を構え、狙いを定めて彼女を撃った。茫然とする彼女を近くから撃ったので、私の腕でも狙い撃つことができた。
 そして、彼女からも血が噴き出した。病室は、瞬く間に血の海に変わった。
 異変に気づいた医者や看護師たちが駆け込み、彼らから悲鳴があがった。驚いたお前が泣き出したが、誰にもあやす余裕がなかった。

 私は、妻に近づき、死にゆく彼女の目を見つめた。気管を貫いてしまったから、遺言を聞けなかった。代わりに、その目の中に、何らかの真実を見いだせるのではないかと思った。違和感だらけの彼女であったが、その両目だけは自然なものに見えた。
 そこには、何もなかった。強いて言えば、安らぎのようなものが見えた。憎悪も、怒りも、絶望もない。なぜ、このような真似をしたのかは分からないが、彼女自身が私の死を望んだ訳ではなく、おそらく、他の誰かがそう望み、彼女が実行したのだろう。
 やがて、瞳孔が開き、彼女の命の灯火そのものが消え去った。
 新生児特有の泣き声が──お前の泣き声が──いつまでもいつまでも、血の海に変わった病室にこだましていたことを覚えている。

 その後の調査で、彼女は、とある没落貴族の命を受け、私を暗殺すべく動いていたことが判明した。だが、それ以上のことは分からなかった。彼女が名乗った名の女性はもともと存在せず、整形されていたので元の容姿も分からず、生まれ育ったと語られた故郷にも、彼女らしき人物が居た形跡は一切見つからなかった。
 大したものだろう。そう短くない期間、私の側にあって、妻として寝食を共にしてきたというのに、彼女は、名前すら私に悟らせなかった。今も尚、彼女のことは何も分からないのだ……。

***

「……これが、お前の母親について私が知っていることの全てだ」

 語り終え、オーベルシュタインが口を閉ざす。ベアテは、ゆっくりと瞬きするだけで、判明したばかりの新事実の数々を消化し切れていない様子だった。
「ベアテ、お前が大きくなったら、彼女の、本来の顔の面影くらいはあるいは知れるかと思ったのだが、お前は私に似たな。やはり、顔すら分からんという訳だ」
 と、オーベルシュタインが言い、自嘲するように小さく笑った。
「大した女だろう」

 ベアテは、なんと応じてよいやら分からなかった。

***

 長期休みから帰ってきたベアテが、ラーベナルトとマリーの出迎えを受ける。そして、すっかり老犬となった飼い犬の出迎えも受ける。
 その後、「父上はいずこにおられる」と尋ね、答えを聞いたベアテは、荷物の運び入れをラーベナルトに頼んだ後、そのままの格好で父親を探しに行った。

 居場所と聞いたサンルームへ向かうと、父親は、聞いたとおりまだそこに座っていた。引退してから随分経ち、髪は、半白を大きく超え、焦げ茶の毛がまばらにある程度となっていたが、その居住まいは、くたびれた老人とは言い難い威厳を未だ堂々と保っていた。
「父上」
 娘の声を聞き、オーベルシュタインが振り返る。チイ、チイ、と、義眼が彼女に焦点を合わせる。
「おかえり、ベアテ。旅行は楽しめたか」
「ええ。実りある調査となりました」
「調査?」
「はい。父上、私は『母上』をついに見つけました」
 オーベルシュタインが首をかしげる。ベアテは、持っていた鞄から一枚の写真を取り出し、彼に見せた。シワの寄った細い指がそれを掴み、義眼の前にそれを近寄せる。

「…………ああ。ベアテ、お前、存外母親に似ていたのだな」
 オーベルシュタインは、感慨深げに呟いた。