オーベルシュタインの娘
その18

 ミッターマイヤーは、自分の方に向かってくる人物の正体に気づき、おもいきり顔をしかめた。今日は灰色の外套ではなく、民間人とさして変わらない白シャツとズボン姿であったが、特徴的な白髪と陰気な顔は隠しようがない。
 相手の方は、かなり近づくまで此方に気づかなかった。すれ違う直前になって彼の存在にようやく気づき、オーベルシュタインが口を開く。
「ごきげんよう、ミッターマイヤー元帥」
「オーベルシュタイン元帥。散歩か」
「ああ。……ベアテ、元帥に挨拶なさい」
 オーベルシュタインが、前に抱きかかえた小さな子供に呼びかける。
 ベアテと呼ばれた幼い子供は、首を回して蜂蜜色の髪の元帥を見やり、生きた眼でじいと相手の目を見た。あのオーベルシュタインの子とはいえ2歳児は可愛らしく、ミッターマイヤーは顔をほころばせた。しかし、ベアテは何も発することなく、顔を父の方へ戻してしまった。
「申し訳ない」
「べつに構わんよ」
 父に比べれば愛らしいものだ、とは、心の中で言うのみにとどめておいた。
 ミッターマイヤーは悔しさを覚え、奥歯を噛みしめた。オーベルシュタインの奴に子供が授かって、おれたちには出来ないとは! この世はつくづく不条理である。
 しかし、オーベルシュタインは、何の対価もなく我が子をさずかったわけではなく、娘の誕生当日に妻を亡くした。理由は明かされていないが、どうやら出産によって亡くなったのではないらしい。担当の看護師が殺害されたという報告から察するに、軍務尚書を狙ったテロリストか何かの犯行ではなかろうか。
 不謹慎だと重々自覚しつつ、オーベルシュタイン本人に対しては『ざまあみろ』と思い、この男の業に巻き込まれた奥方と娘には同情する、というのがミッターマイヤーの彼らに対する評価であった。
「ちょうど良かった。少々、この子を見ていてもらえないか?」
「うん?」
 ふいに意識を現実に引き戻されたミッターマイヤーは、何を頼まれたかを飲み込むのに少々時間を要した。その間に、犬猫のようにヒョイと渡された娘をうっかり受け取ってしまい、目をまたたかせている間に、オーベルシュタインは足早に去って行ってしまった。
「え? おい、ちょっと」
 かけられた声に気づいているのかいないのか、オーベルシュタインは立ち止まらず行ってしまった。
『見ていてくれ』とはどの程度なのか? お前はその間どこに行きたいのか? この子は人見知りしないのか? 色々と確認したいことがあったのだが、そのどれも伝えられなかった。
「……まあ、いいだろう」
 見失わないように注意しつつこの辺りで待っていようと思い、渡された女児を地面にそっと立たせる。とつぜん他人に引き渡されたわりに、泣き喚くでも走り去るでもなく、この子は大人しかった。
「お父さんが戻るまで、そこに座っていようか」
 ベンチを指さしてそう話しかけてみると、ベアテは、返事もしなければ頷きもしなかった。だが、よたよたと歩いてベンチに向かい、彼女には少々高い座面に這い上がって、そこに腰掛けた。
 ふむ、こちらの言うことを完璧に理解しているな。かしこい子だ。
「そうそう。えらいね」
 ミッターマイヤーは笑顔を浮かべて賞賛した。フェリックスが2歳だったときはここまで聞き分けが良くなかったし、彼やエヴァが見ていないといつどこへ駆け出すか分からなかった。
 ベアテは特に反応しなかった。まあ、2歳児なんてこんなものだろう。
 ミッターマイヤーが隣に腰掛ける。ベアテは、退屈そうに足をぶらつかせていた。父親は、どこまでいったのか、見える範囲には見当たらない。
「お父さん、どこに行ったのだろうねえ」
「…………」
「お名前、なんていうの?」
「ベアテだ。もうわすれたのか」
 返事を期待していなかったミッターマイヤーは、予想外の返答を聞いてビクリと驚いた。思いのほか流ちょうである。
「そうだったな、すまん。じゃあ、ええと……いくつになった?」
「2さい」
 ベアテが指を2本たてて示しつつ応じる。
 うむ、かしこい子だ。認めたくはないが、さすがはあの軍務尚書の子供といったところか。
「今日は、お父さんとお出かけ? どこに行ってきたの?」
「おとうさまと、ヴェスターランドのおはかまいりをした。それから、こうえん、ここ、にきて、あそんだ。これから、おいしゃさまにいく」
 これが2歳児の文章だと? ミッターマイヤーは唸った。
 2語文3語文どころか、文を適切につなげて時系列で説明できている。赤の他人の自分にも意味がハッキリ通じる。2歳だった頃のフェリックスとレベルが違いすぎる。女の子は言葉が早いとは耳にしていたが、ここまで差があるものなのか。
「ベアテちゃん、お話が上手だね。お父さんが教えてくれたの?」
「…………」
 ベアテが両目をまたたかせる。考え込んでいるようだ。そんなに説明の難しい事情があるのだろうか?
 人の気配がして、ミッターマイヤーはそちらを振り返った。オーベルシュタインが戻ってきていた。
「戻ったか。卿、せめて、離れる理由と時間の目安をだな」
「ベアテがしゃべった……」
「え?」
 予想外の言葉にミッターマイヤーが絶句する。『しゃべった』? 『しゃべった』って、まさか、初めて口をきいたとでも?
 ベアテがベンチから降り、よたよたと父親の元に向かう。両腕を上に伸ばして『抱っこ』と訴える姿勢をとると、父親はすぐに彼女を抱え上げた。
「この子は、2歳になっても一言も口を利かぬので、発達に障害があるのかと疑っていた。今日、これから診察を受けさせるつもりであった」
「2歳とは思えんほど流ちょうだったぞ?」
「聞こえた。私には口を利かなかったのに。ベアテ、なぜ……?」
 オーベルシュタインが珍しく、どこか悔しそうな話し方で娘に問いかける。
 しかし、ベアテはやはり何も答えず、父親に顔を押しつけ、ふいっと目をそらしただけだった。

 あとになって、成長したベアテが語ったところによると、
「父上は、言わなくとも何でも察してくださるので、あえて話す必要はないと思っていた」
 とのことである。