オーベルシュタインの娘
その21

 赤毛の巨体がそろり、そろりと鍛え上げられた隠密歩行にて若い二人に近づいたとき、二人はまったく気づく様子なく、建物と建物の間の影からクーリヒ邸を見つめていた。
「すみません」
 キルヒアイスの穏やかな声が呼びかける。すると、アレクとフェリックスは驚いてビクリと数センチ跳ね、バッと振り返ってキルヒアイスと対面した。彼らの見目麗しい顔が、それぞれ白く青く色を変化させる。かなり動揺したようだ。
「あっ…!」「う、ぁ」
「……驚かせてすみません。ずっと私たちの家を見ているようなので、何かと気になりまして」
 キルヒアイスが両手をあげ、相手を落ち着かせるように空中で揺らす。
「……あ、あの。おれたち、その……」
「私たち、ミューゼル閣下のそのっ、ファンで!」
 アレクが咄嗟にそのように言い訳する。フェリックスもチラと親友に目配せしたのち、同調して頷いた。
「ご迷惑かとは思ったのですが、どうしてもその……あの方をもっとよく知りたくて、それで……申し訳ありません」
「すみませんでした」
 二人はそろって深く頭を下げた。キルヒアイスの人柄は極めて善良であったと伝えられているが、一方で、主君たるラインハルトを害すると見なした相手には、鬼神の如く襲いかかったとも言われている。怒りを買いたくはない。
「ミューゼル閣下のことをよく知りたい……?」
「はい」「そうです」
 それは嘘ではない。そのために、彼らはここにいるのだから。
「……こんなお願いをするのは差し出がましいでしょうが、もし宜しければ、ミューゼル閣下のことを私たちに教えて下さいませんか? キルヒアイス様。あなた様は、伯の唯一無二のご親友と伺っております」
 ダメ押しでアレクが続けてみる。実際に教えてくれれば良い収穫になるし、教えてくれなくとも嘘の信憑性は増すだろう。
「……あなたがたの、お名前は?」
 キルヒアイスの声が静かに尋ねた。
「〝ジークフリード〟と申します。……家名はすみません、事情があって言えません」
「おれは〝ハインリッヒ〟と申します」
 頭を下げたまま、アレクはミドルネームを、フェリックスは義兄の名前をそれぞれ名乗った。
 すると、キルヒアイスの両手が、アレクの両肩をガッシと掴んだ。驚いたアレクは、頭を下げたままビクリと震える。それから彼は、恐る恐る顔を上げた。
 目の前には、両目をランランと輝かせるキルヒアイスの顔があった。
「ジークフリード君! 私も同じ名です、奇遇ですね。それにハインリッヒ君。……もちろん! ラインハルト様の素晴らしさについてでしたら、いくらでもお話させてください」

 二人はキルヒアイスに連れられ、雰囲気のいいカフェに入り、ランチと飲み物を奢ってもらった。それから、『ラインハルト様の素晴らしさ』について、たっぷりと夕方まで教わることになった。

      *

「……遅かったな。一体どうしたかと思ったぞ」
 夜、クーリヒ邸に戻ってきたキルヒアイスを、不機嫌顔のラインハルトが迎える。対して、キルヒアイスの顔は、何やらツヤツヤしていた。
「ええ、遅くなって申し訳ありません、ラインハルト様。こちら、お土産です」
 すかさずケーキの箱を差し出す。中身は、ラインハルトの好物であるフランクフルタークランツである。
「む……。まったくおまえは、菓子を持ってくればおれを懐柔できると考えおって……。で、どうだった?」
 ラインハルトが尋ねると、キルヒアイスはニッコリと微笑んだ。
「良い子たちでしたよ!」
「そ、そうか……」
 ラインハルトは何か納得がいかなかったが、キルヒアイスが楽しそうだったので、彼を信じることにした。

 アレクとフェリックスの二人がキルヒアイスに遭遇していた頃、ベアテ・ヴィクトール・トモコの幼年学校生三人組は、当時のラインハルトらが所属していた軍施設周辺を探っていた。軍施設の周辺とはいえ、その他の一般施設や商店も多く、街は人で賑わっている。
「意外と、街並みは変わらないね」
 周囲を見回しながらトモコは言った。未来の寮で暮らす間、週末になると、彼らはこの辺りに外出することがある。
「なくなったのは政府関連のものだけだからな。多少、需要が減って店も減ることはあろうが……」
 ベアテも頷く。
「迷子になるこたぁなさそうだな」
 辺りを見回しつつ、ヴィクトールも言った。
「……あっ! 見て!」トモコが声を上げる。
「どうした?」ベアテがバッと振り返る。
 トモコの指さした先には、ケーキ屋の店舗があった。金髪か赤毛の人間がいたのかと目をこらすも、それらしい人影はない。
「あのお店、私たちの時代にもあるやつだよ! ……なんかお腹空いたな、買っていってもいい?」
 ベアテは軽く、ヴィクトールは大きく肩を落とし、そろって脱力した。
「遊びに来たんじゃないんだぞ」
「え? そうなの?」
 トモコに聞き返され、ベアテはグッと言葉を詰まらせた。彼女にも、自信をもって反論ができなかった。後ろでヴィクトールも「ううん」と溜め息をついている。
「……もう少し探して、見当たらなければ休憩がてら寄ろう」
「やった」
「ったく。お前も真面目に探してくれよな」
 ヴィクトールが呆れた様子で言うと、トモコは眉を八の字にした。
「う、うん。探すよ」
 そのとき、ベアテの目があるものを捉え、カッと見開かれた。彼女がカツカツとそちらに向かっていく。ただならぬ様子を察知したトモコとヴィクトールも、彼女が向かった方向へと視線を向けた。
 そこに居たのは、半白の頭髪をもった、長身痩躯の『旧王朝』大佐の男だった。
「あれって……」
「シッ」
 何か言いかけたトモコの口を、ヴィクトールが手でふさいだ。
 男性は、なにやら通りの端に寄り、壁際にうずくまっていた。彼のもとへ、颯爽とした足取りでワンピース姿のベアテが歩み寄る。
「失礼、大佐殿。もしや、目が見えないのでしょうか」
 ベアテが丁寧に尋ねた。すると、大佐――過去のパウル・フォン・オーベルシュタインが顔をあげた。声のする方に顔を向けてはいるが、生気のない虚ろな義眼の眼差しは、ややずれた方角に向けられている。
「……ええ。よくわかりましたな……お嬢さん?」
「家族に同じような人がおりまして。何かお手伝いいたしましょうか」
「これはご親切に。ではタクシー乗り場まで連れていってくれませんか」
「ええ。お手を」
 そう言うと、ベアテは自身の二の腕に彼をつかまらせた。タクシー乗り場へ向かう前に、トモコとヴィクトールにハンドサインを送る。
『私は放っておいて二人で調査を進めてくれ。あとで合流しよう』
 その後、ベアテと未来の父は連れだって去って行った。

「あいつ、なんて?」
 ヴィクトールがトモコに尋ねた。
「えーっとね……『ゆっくり休んで待ってて』かな?」
 トモコはハンドサインを誤解していた。