オーベルシュタインの娘
その5

「怒った顔も愛らしくておいでだ、フロイライン」

 オーベルシュタイン元帥の令嬢フロイラインが効かせた睨みに怯んだ様子をおくびにも出さず、3つ年上のミッターマイヤー元帥の黒髪の子息はサラリと言ってのけた。
 この男、どういうつもりだ?皇帝の親友たる彼が、アレク兄様の窮状を分からぬ筈はあるまい。
 ベアテが目の前を塞ぐフェリックスの背後を見ると、アレクサンデルが此方の様子を心配そうに窺っている様子が見えた。ベアテの目線の先をチラリと見やり、フェリックスは、フッと気障きざったらしい苦笑を漏らしつつ言った。

「……アレクのことなら、心配いらない」

 その言葉に、ベアテのキツい表情が緩んだ。何か、考えあってのことだろうか?思えば、旧王朝における父親のラインハルト様なら兎も角、現皇帝のアレクサンデルが、孤立無援で彼の王宮に居る筈がない。無論この場には、彼を気遣い、憂う大人たちが多く居る。彼女の父親もその1人だ。
 自分が面倒の種を買ってまで、無理をする必要は無かったかもしれない。既に、何らかの対処が進んでいるのかもしれない。それで、この年長の元帥の子息は、当たり障りのない方法で自分を止めに来てくれたのかもしれない。……自分の性分がこうなので、思い切り睨みつけられる結果になってしまったが。
 そうした考えに至ると、ベアテは意固地になった自分が恥ずかしくなり、目を伏せて数回瞬きした。数瞬後、負の感情のなくなった顔をフェリックスへ向け、彼が差し伸べる手をとった。

「…失礼いたしました。喜んでお受けします、ヘル・ミッターマイヤー」

 2人がダンス・パートナーとなったタイミングで、音楽が鳴り始めた。2人は体を寄せ合い、フェリックスが手慣れた様子でベアテの腰に手を回し、音楽に合わせて踊り始めた。
 クルリ・クルリとターンするたび、ベアテのドレスの長い裾が広がり、揺れる。社交界きっての人気者である、黒髪の美男子のパートナーを羨んでか、目が合った別の令嬢たちから何度か睨みつけられた。『彼女たちと踊っている男性たちが哀れだな』とベアテは思った。それほど踊る相手に妥協できぬなら、いっそ、納得のいく相手が見つかるまで踊らず隅に居れば良いだろう。

「存外、踊るのが上手じゃないか。フロイライン。いつも、壁の花を決め込んでいるというのに」
「家で練習しておりますので。それに、アレク兄…陛下とよく踊っておりますから」

 ベアテの言葉に、一瞬だけ、フェリックスの整った顔に苦々しげな表情が過ぎった気がした。意図を測りかねたベアテは片方の眉を上げる。しかし、フェリックスの其の表情は一瞬で消え去り、再び女性殺しの麗しい微笑が彼の顔を覆った。

「ミッターマイヤー先輩こそ、流石に踊り慣れておいでですね。私が踊ったことのある男性は片手で数えられる程しかおりませんが、ミッターマイヤー先輩は誰よりもエスコートをお上手になさいます。経験量の違いですかね」
「おいおい。それは褒めてくれているのか、貶しているのかどっちなんだ。人聞きの悪い。おれはただ、美しい女性たちの頼みを断れないだけさ」
「誰も悪いとは申し上げておりませんよ。そのように聞こえるのは、自覚がおありだからでは?」
「…フロイラインには敵わないな」

 フェリックスは、ニヤリと不敵な笑みを返した。ベアテは、『考えてみれば妙なものだ』と会話しながら思いを巡らせた。皇帝のダンス・パートナーが自分になった舞踏会は、何も珍しくはない。しかし、このミッターマイヤー元帥の息子が自分をダンスに誘ったのは初めてである。今まで彼は踊りきれないほどの“美しい女性たち”に囲まれ、彼女達と踊って過ごしてきた。睨んできた令嬢の数から察するに、今日とて相手に事欠かないことに変わりないだろう。今回は、一体どうして頼んでもいない自分を誘ったりしたのだろう。…あまり追いかけられすぎると、逆に追いかけてこない人間が欲しくなるとか?…人の心理は不可解だ。
 アレク兄様のためだろうか?そうかもしれない。あえて、アレク兄様が私ばかりを頼ってしまわぬように。この黒髪の美男子が、親友たる金髪の皇帝に向ける友情には、並々ならぬものがある。
 そんなことを思っていると、ちょうど今しがた思い浮かべていた美貌の皇帝の姿が目に入った。高貴な身なりをした何処かの令嬢と踊っている。よかった。無事にダンス・パートナーが見つかったようだ。
 安堵した後、ベアテはフェリックスとのダンスに集中することにした。彼の意図がどうあれ、踊ると決めた以上は、完璧に踊らなければならない。余所見に気を取られて無様に踊り間違えては、フェリックスに失礼でもあるし、何より『雑な仕事はオーベルシュタインの名に恥じる』とベアテは考えていた。
 やがて、演奏が終わると、2人はピタリと動きを止め、体を離した。フェリックスは片手を胸に当て、ベアテは両手でドレスの裾を持ち上げ、お互いに丁寧に礼を交わした。

「…フロイライン。よければ、一緒に中庭で少し外の空気を吸ってこないか?」

 意外な提案を受け、ベアテは目をパチクリさせた。

「なぜ?」
「なぜって…気難しいな、フロイラインは。ダンスを踊った相手なのに、一緒に外の空気を吸いに行くのは嫌だというのか?」
「……………」

 ベアテは答えぬままキョロキョロと辺りを見回し、彼女の友人の姿を探した。彼女は踊ったのだろうか。それとも、壁際で傍観することにしたのだろうか。いずれにせよ、友人の姿は見つからなかった。仕方なく、ベアテは目の前の美男子の青い瞳に視線を戻した。

「…いいでしょう」
「よし。では、行こう。早くしないと、おれはまた女性たちに取り囲まれる」

 フェリックスは、ベアテの手を取ると、彼女を引っ張って会場の外へ向かって行った。彼の言の証左を示すかのように、般若のような顔をした幾人もの令嬢たちが視線を送ってくるのをベアテは見た。

 獅子の泉ルーヴェン・ブルンの王宮の美しく手入れされた庭園には、色とりどりの花々や、丹念に刈り込まれた生け垣、完璧に配置された樹木が立ち並び、道には赤レンガが美しく敷き詰められている。道に沿って街灯が立ち並び、夜が更けても視界を十分に得られるだけの明かりを投げかけていた。星明りと、月明かりが照らすその庭園は、芸術品といえる素晴らしいものだった。
 時折巡回する衛兵が多少いる程度で、来場客は皇帝と共に会場内に留まっており、庭園には殆ど人気がない様子だった。その中を、ベアテはフェリックスに連れられて歩いて行く。
 やがて、薔薇の生け垣に囲まれた庭園に辿り着いた。見頃の薔薇の花をつけた美しい生け垣が、囲いのように整形され、一部はアーチを形作っている。そこへ、フェリックスはベアテを連れて行った。ようやく立ち止まると、ベアテの手を離し、フェリックスは彼女の顔を真正面から見つめた。

「…外の空気を吸うだけにしては、随分歩いたようですが」
「ああ、そうだな。実は、フロイラインに話がある」
「話、ですか」
「そうだ。フロイラインも、奇妙に思ったことだろう。おれがどうして今日、フロイラインをダンスに誘ったのか。さあ、どうしてだと思う?」

 自分も疑問に思っていたことを逆に問われて、ベアテは考え込んだ。結局、彼はどうして今日、自分と踊ることにしたのか?

1. 最初に考えた通り、自分が皇帝であるアレク兄様と踊りすぎて、面倒を呼び込まないようにするため。
2. 追いかけてこない女性と踊りたくなった。
3. 単なる興味本位。
4. 実は、自分のことが好き。
5. ………

「……私が、アレク兄様といつも踊るのを羨んでのこと…ミッターマイヤー先輩が、アレク兄様を独占したいがゆえ…私を、アレク兄様から引き離すため…ですか?」

 これといって確証がある訳でも無かったが、ベアテは思いついた理由の内、最後に浮かんだ答えを口に出してみた。予想外の回答だったのか、フェリックスはキョトンとした様子でサファイアの瞳を見開き、パチパチと瞬かせた。数瞬の後、フェリックスは吹き出し、腹を抱えて笑い始めた。なんだか酷く馬鹿なことを言ったのではないか、という意識に囚われ、ベアテは所在なげに目線を伏せた。
 やがて、笑いが治まってきたらしいフェリックスが、顔を上げて言った。

「はははっ……ベアテ、お前っ…!お前…ふふ、なかなか、賢いじゃないか…あはは…」

 そう言われ、ベアテは困惑した。図星だったのか?それとも、自分があまりに馬鹿げたことを言ったから、わざとからかっているのか?…どちらともつかず、反応に困ったベアテは押し黙ったままでいた。やがて、フェリックスが切り出した。

「さて!たっぷり笑わせて貰ったことだし、外の空気も十分吸えた。おれは会場に別のフロイラインを待たせてしまっている。連れ出しておいて悪いが、先に失礼させてもらうよ。お前も十分休んだら、ゆっくり戻ると良い。じゃあな」

 そう言うと、ヒラヒラと手を振ってフェリックスは足早に去って行ってしまった。残されたベアテは、薔薇の生け垣に囲まれたまま、彼の真意を考えて立ち尽くしていた。

 ベアテからも、周囲の衛兵からも十分離れた事を確認すると、フェリックスは小さく舌打ちした。誰にも聞こえない小さな声で言う。

「……やれやれ…まったく、油断のならぬ娘だ。あのオーベルシュタイン元帥の令嬢というだけある…」

 手玉に取って遊んでやろうと思ったのに、まさか真意を見抜かれてしまうとは。これからは、迂闊に彼女に近づかぬようにした方が良さそうだ。次はもっと上手くやろう。そう……

 アレクの隣に居るのは、自分だけで良いのだから。