オーベルシュタインの娘
その6

 時折、街を通り抜けていく寒風が、街路に落ちた枯葉をクルクルと舞わせ、道行く人々の身を凍えさせる季節の、首都星フェザーン。ローエングラム王朝・銀河帝国の遷都が成された後、新たに建築されたオーベルシュタイン家の邸宅に、いま、その家で生まれた娘が戻ってきていた。
 
『ドライアイスの剣』『絶対零度の剃刀』などと称される銀河帝国軍務尚書の、新たな住処として、オーディンの建築技師たちの意匠により新・首都星の地に建てられたその邸宅には、いささかもフェザーンらしい特徴がない。フェザーンのかつての権力者が好んだ、成金趣味的な高価な調度品が並んでいることもなければ、一般のフェザーン人が好む、壁面ガラスと金属の直線的なデザインがあしらわれていることもない。
 中世ヨーロッパ風の、壁に沿っていくつも並ぶ木枠の窓。厚手の赤いカーテン。重厚な木で出来た、古めかしい手動扉。天井近くに文様、足元に木のパネルがあしらわれ、淡い色の壁紙が貼られた壁。よく磨かれた白い床。要所に置かれた彫像や風景画などの美術品、テーブルやクローゼットなどの調度品は、家主が自身の生家から持ち込んだものである。
 
 首都の座を明け渡した今もなお、主たる学術都市の座にある都市星オーディンから戻り、クリスマス休暇の最中にあるベアテは、自室の化粧台の前に座り、メイドに髪を梳かされていた。ベアテの幼少の折から世話を担ってきた彼女が、自慢のお嬢様の身だしなみを整える機会は、今では休暇中に限られている。
 
「あんなにちいちゃくておいでだった、わたくしのベアテお嬢様が、こんなにお綺麗になられているなんて。どうして休暇の間しか、お嬢様をお世話できないのでしょう。わたくしもオーディンに行ってはなりませんか」
「ならないに決まっているだろう。幼年学校に従者連れなど許されん」
「酷でございますわ。お嬢様のご結婚の際には、わたくしをお嫁入り先で働かせてくださいましね」
「気が早すぎだ」
「そんなもの、あっという間ですわ。殿方がこんなに麗しい女性を放おって置けるはずがございませんよ。それまでに、白髪をなんとかいたしましょうね」
「染めんぞ」
「あらあら。相変わらず強情ですこと」

 クスクスと笑うメイドを鏡越しに見やりながら、少しだけ眉をしかめ、ベアテは小さく溜め息をついた。結婚をいずれ考えるとしても、今の自分の関心事は、いかにして父親に恥じない軍人になるかだ。

──────────

 厚手のワンピースの上にコートを羽織り、ベアテが屋敷の階段を下りてくると、彼女の父親が玄関口にいるのが見えた。ベージュのトレンチコートを着て、首元までボタンを留めた彼は、千切れんばかりに尻尾を振る飼い犬のダルマチアンにリードを着けてやっている。彼女が幼年学校に入学する少し前にこの家にやってきたその犬は、今にも走り出さんばかりに準備ができるのを待ち兼ねている。「前にいた老犬とは大違いだ」と、父親が呟くのをベアテは聞いたことがあった。
「父上」と階段の途中からベアテが声をかけると、彼女の父親は犬から目を上げ、娘に義眼の焦点を合わせた。

「これから犬の散歩ですか」
「ああ」
「私も行こうと思っておりました。一緒に行っても?」
「うむ。此奴も喜ぶだろう」

 リードを取り付け終え、彼が身を起こすと、犬は下りてきたベアテに駆け寄っていき、彼女にまとわりついた。ベアテが犬の頭を掻いてやると、久方ぶりに会う主人の愛撫を喜んでか、犬は、嬉しそうにキュウキュウと鳴き声をあげた。

──────────

 白髪交じりの髪を揃って風になびかせ、感情の読み取りにくい顔を並べ、元気なダルマチアンの成犬の後に続き、私服姿のオーベルシュタイン父娘が歩いていく。知らぬ者でも、ひと目で父娘と判別がつくほど2人は似通っていた。ただし、父親の肌色は血の気が失せて青白く、不健康そうな印象を与える一方、娘の肌色は薄っすらと赤みが差しており、色白で若々しく、生命力に満ちた印象を与えている。
 2人と1匹は、オーベルシュタイン邸が属している閑静な高級住宅街を通り抜け、商店が多く出ている通りに辿り着いた。散歩にうってつけというには少々寒風の厳しい気候であったが、クリスマス休暇のシーズンであることもあってか、そこでは、カップルや家族連れ、友人連れらしき人々が多く歩いていた。街路にも、表通りに面した店のショー・ウィンドウにも、クリスマスの赤と緑の装飾、そして贈り物需要を狙った商品の数々が並んでいる。
 道行く人々のほとんどは、何の変哲もない父娘とペットに少しも興味を抱かず、クリスマス・イルミネーションや店の商品に視線を向けていた。時折、ぎょっとしたように2人の方を──正確には、父親の方を見て目を丸くし、慌てて彼らを避けて進行方向を変える者もいた。
 しばらく通り沿いを歩くと、オーベルシュタイン(父)は立ち止まり、娘の方を見た。

「…そういえば、鶏肉がなかったかもしれん。少し、彼と待っていてくれるかね」
「わかりました」

 娘の返事をきくと、オーベルシュタインは握っていたリードを彼女に預け、道行く人々の雑踏の中へと溶け込んでいった。鶏肉を扱っている店ならいくつもあるが、どこで買ってくるつもりなのだろう。そんな事を思いながら、ベアテは犬の体を手でそっと押して移動させ、一緒に通りの隅へ寄った。『なぜ移動しないのか』とばかりに、そわそわと動くダルマチアンの頭を掻いてやり、なだめながら父親の帰りを待つ。こういう時は、犬に言葉が通じないことに不便を感じる。

「おや、ベアテお嬢さん」

 不意に声をかけられ、ベアテが振り返ると、癖のある銀髪と翡翠色の瞳を持つ男性が、買い物を詰めた紙袋を抱えて立っていた。父の副官を務めているフェルナー中将だ。彼は時々、父に招かれてオーベルシュタイン邸にやってくるため、彼女にとっても顔なじみだった。父親を除けば、現職の軍人の中で彼が最も親しい人間である。

「ワンちゃんのお散歩かい」
「はい。フェルナー閣下は、お買い物ですか」
「うん。休暇で時間がとれることだし、何か凝ったものでも久々に作ろうかと思って」
「……閣下はご自分でお料理をなさるのですか?」
「休みの日だけ、時々ね」
「…使用人は雇えないのですか」
「…ああ~、なるほど。もちろん雇えるよ。それ位の給料はちゃんとお父上が割り当ててくださっているさ、大丈夫。平民出身なせいか、他人に家の中をいじられるのがあまり好きじゃないだけだよ。料理は好きでやっているのさ」
「そうなのですか」
「ところで、1人かい?ここは人通りも多いし、特別危険じゃないとは思うけど」
「父上が買い物から戻られるのを待っています。それに、仮に1人でも、私も軍人を志す身です。閣下と比べて特別危険ということはございません」

 そう平然と答えてみせる白髪交じりの上官の娘をみて、フェルナーは顔をほころばせた。彼女の言が大言壮語というわけでもないことを、フェルナーはよく知っていた。白兵戦が不得手な上官に代わり、よく彼女の戦闘訓練を買って出てきたフェルナーは、彼女の目覚ましい成長ぶりを間近で見てきている。素人の男性は言うに及ばず、多少心得のある者ですら、下手に彼女を相手にすれば、相当に厄介なことになるだろう。
 まあ、一番厄介な目に遭うのは、その後、彼女を襲ったことが彼女の父親にバレてからだが。

「それもそうだね。むしろ、何かあったら君が父君を守れそうだ」
「無論です」

 14歳の可愛らしい元帥令嬢は、堂々と言ってのける。フェルナーは翡翠の目を細めた。
 将来が楽しみな子だ。それに、かわいい。自分と組手をする時にみせる、機敏にステップを踏み、スリムな身体を翻らせて拳や蹴りを繰り出す姿もなかなかに美しいが、年相応の少女らしいワンピースを着て、静かに佇んでいる今の姿も、凛として美しい。

「ベアテお嬢さん、恋人はできた?」
「…またその話ですか。どうだってよろしいでしょう」
「ははは、すまないね。おじさんの戯言に毎度付き合わせてしまって」
「幼年学校の学生になど、私が関心を持てる相手はいません」
「そうかい。……もし、お嬢さんが年上の男に関心を持てるなら、私も立候補したいね。考慮に入れてもらえると、嬉しいなあ」
「おや、フェルナー閣下。ロリコン趣味がおありでしたか。妙な真似をなさるようなら、父上に申し伝えます」
「ちょ、やめてください。ごめんなさい。やめてください。マジでブッ殺されてしまいます」

 形よく整った顔を青ざめさせながら、フェルナーは謝罪した。自分が彼の愛娘に手を出した、あるいは、手を出すつもりかもしれない、と考えた軍務尚書が、自分をどうするか! 考えただけで肝が冷えるどころか凍りつく思いだ。
 そうこうしていると、オーベルシュタインが買い物袋を下げ、娘と犬を待たせた場所に戻ってきた。買い物途中らしい、私服姿の副官が新たにその場に居ることを視認し、彼に目を向ける。

「フェルナー中将」
「ご機嫌麗しゅう、閣下。お嬢さんと久々のお散歩ですか」
「うむ。何か、話していたようだが」
「あー、その、小官が自分で料理をするというのが、お嬢さんには馴染みがなかったようで。使用人は雇えないのか、と聞かれておりました。小官からすれば、普通のことなのですがね。平民の子と貴族の子では、そんな感覚の違いがあるのか、などと感じていたところでございますよ」
「そうか」
「では、荷物もありますし、小官はこれで失礼します。よいクリスマスを」
「うむ」

 フェルナーは買い物袋を左腕で抱え、右手を上げて軽い敬礼を済ませると、進路に向き直り、自宅へ向かって歩み始めた。
 ああ、残念。フラれてしまった。彼女に対しては冗談めかしていたものの、満更冗談でもなかったために、心の内でフェルナーは肩を落とした。まあ、年の差が差でもあるし、仕方がない。……彼女はともかく、父親のほうは自分がほとんどの時間、独占しているのだ。それで満足するとしよう。

「いや、待て、フェルナー」

 立ち去ろうとするフェルナーに、オーベルシュタインが声をかけ、呼び止めた。フェルナーは止まって振り返り、キョトンとした顔で私服姿の彼の上官をみた。

「卿は、クリスマスに予定はあるか」
「…いえ、ございませんよ。残念ながら、一緒に過ごす恋人にも恵まれませんで。小官には家庭もありませんし」
「そうか。では、我が家に来るか?」
「……えっ…ええ! 是非とも。伺います。そうだ、クリスマス・プティングをねかしてある。持っていくから是非食べてみてくれ、お嬢さん」
「それなら当家のメイドも作っていますが」
「じゃあ、食べ比べてみてくれ。ベアテ審査官の評価を伺いたい」
「…ええ、わかりました」
「時間は追って連絡しよう」
「お待ちしております」

 そう答えると、フェルナーは再び帰路についた。今度は少しだけ、足取りが弾んでいるようだった。