オーベルシュタインの娘
その7

 常の散歩ルートを正確に辿り、主人たちと同じ速度で前を歩く愛犬に続き、オーベルシュタイン父娘がフェザーンの街を進んでいく。ある通りに入ろうとしたとき、聞き覚えのある怒鳴り声のようなものが聞こえ、リードを引いてベアテは立ち止まった。犬は、立ち止って不思議そうに主人を振り返り、彼女の父親は、立ち止まると、声の出処を探して辺りを見回した。
 ほどなくして、オーベルシュタイン父娘の視線の先が音源を捉えた。オレンジ色の髪・筋骨隆々とした身体・肩幅のわりに細面の顔をもつ父子が、通りの中心にいるのが見える。

「それでは、今年も、オーベルシュタインめの娘に1勝もできなかったというのか!?」
「はいっ…! 申し訳ございません、父上…! 父上の教えをあれほど受けていながら、この体たらく…面目次第もございません…!」
「何かの間違いではないのか? 奴の娘、間違いなく正々堂々とお前と戦っていたか?」
「はっ! 恐れながら…不正の余地があったとは思えません。…おれの力不足です…!」
「くっ…オーベルシュタインめ…軍務省のデスクの前で生きている分際で、一体いかにして娘にヴィクトールを破らせているのだ…? …フンッ。奴の行動を考えても仕方ない。不正がないというならば、我らは、正々堂々、勝つために全力をあげるのみ。
 ヴィクトォォール! オーベルシュタインの娘に勝ちたいか!?」
「はい、父上!」
「その為ならば、死力を尽くせるか!?」
「はい!」
「その意気や良し! この冬は、おれがお前を徹底的に鍛えてやる! 覚悟は良いな!」
「はい!」

「感心ではあるが、そういう話は家でしてほしいものだな…」

 彼らから離れた通りの入口で、娘と犬と一緒に様子を伺いながら、オーベルシュタインは常のか細い声で呟いた。熱意に満ちた決意表明を大声で叫ぶビッテンフェルト父子を、通りを歩く一般住民たちも少し遠巻きにして眺めている。

「ビッテンフェルト家では、声をひそめるべき時や、話すべき場というものを教えないらしい」
「父上、道を迂回いたしませんか」
「賛成だ」

 1本隣の通りを通ろうと、リードを引いてベアテは道を変えようとした。すると、リードがビンと張り、彼女の引く力と反対向きの力がかかった。みると、彼女の愛犬が4つの脚を踏みしめ、抵抗していることが見て取れた。強情な犬は、今日に限って散歩のルートを変える気がないらしい。

「……仕方ない。行きましょうか」
「うむ」

 まったく、犬に言葉が通じれば良いのだが。そんな叶わぬ願いを頭に浮かべつつ、ベアテは諦めたように溜め息をつき、オーベルシュタイン親子は、彼らを目の敵にしている別の親子の居る通りを進んでいった。
 気付かれずに通り過ぎられれば、という願いも虚しく、ビッテンフェルト父子はオーベルシュタイン父娘を目聡く発見した。

「…オーベルシュタイン!?」
「…ビッテンフェルト元帥」
「今の話を聞いていたのか?」
「あれで聞こえなければ、私の耳が悪いのだろうな」
「クッ…まあよいわ。聞かれて困る話など、もとより、ビッテンフェルト家の者はしない。いつまでも良い気にはさせんぞ、オーベルシュタイン。このヴィクトールが、かならず貴様の娘を打ち負かしてくれる」
「ぜひとも、そうしてもらいたい」
「んなっ…!?」
「模擬戦で負けたところで、人命を損なうことも、戦略的優位や版図・物資などを失うこともない。むしろ、負ければ負けるほど、己の技量の不足を知ることができて、得というものではないか。
 卿も知っての通り、私は戦場で指揮をとることがない。娘に教えてやれることは、限られている。私では不足のところを、より実績ある者の教えを受けた人間に補って貰いたいのだ。
 …だが、卿の息子はどうだ。もう500戦ちかく手合せをしているというのに、いまだ娘に1勝もしておらぬそうではないか。かつて私を張り倒してまで主張した、卿の武人の誇りとやらは何処へいった。卿の実績はどうなったのか。これでは、卿の息子はともかく、私の娘に得がない。
 まだ娘との手合せを望むならば、休暇明けまでに勝てるよう、彼を鍛えよ。そこで勝てなければ、これ以上、娘の時間を使うことは許さぬ。以後は、より実力の見合う者を相手に精進させるがよい」

 オレンジ色の髪の父親より遥かに音量の小さい声で、だが春雷のように低く轟き、冷徹に放たれたその言葉は、猪に例えられる猛将の元帥をも一瞬怯ませた。

「……じょっ…上等だ! 休み明けだな? 時間はまだある。それまでに、ヴィクトールを徹底的に鍛え、望みどおり貴様の娘に勝たせてみせる。首を洗って待っているがいい!」
「期待している」

 本気か皮肉か判別のつかない、平坦な声でオーベルシュタイン(父)が応じるのを聞くと、彼を最後にひと睨みしたのち、ビッテンフェルト(父)は息子の肩を軽く押し、いましがたオーベルシュタイン父娘が入ってきた方向に向かって肩を怒らせながら歩いていった。ヴィクトールは、苦々しげに、どこか不安げでもある顔でベアテを一瞥し、父親と連れ立って歩いていった。
 そんな彼らを見送ったのち、ベアテは振り返って父親をみた。先程と異なり、ほんの少しだけ、嫌悪の表情が父親の顔に浮かんでいることに気付く。

「…子供の前で、大人気のない真似をしてしまった。あの子が気に病んでおらねばよいが」

 何事においても自身の行動に後悔がない様子の父親が、珍しく後悔しているかのように言うのを聞き、ベアテはかぶりを振って答えた。

「問題ないでしょう。あれで折れる程度であれば、もとより私は相手しておりません」
「……そうか」
「父上はお優しいですね」
「そうかね」
「はい」
「…そんな評価をする者は、他にそう居ないだろうな」
「ええ」

 何度も散歩の中断を受けた犬が、またビンとリードを引っ張り、主人たちに再開をせがんだ。それに応じ、父娘は通りの反対側に向かって歩み始めた。その後は、これといって何もないまま折り返し地点を超え、彼らは無事に帰路につくことができた。