オーベルシュタインの娘
その8

 透明な壁に囲まれた空間の中に浮かぶ小さな艦艇の群れが、うごめき、せめぎ合いながら火花を散らす。敵味方の区別を容易にするべく、シミュレーション上、青くカラーリングされた艦艇の群れが、オレンジ色にカラーリングされた群れに食い散らされていく。やがて、青い艦艇のうち、特別な艦を指し示すアイコンを頭に乗せたものが小さな爆炎に包まれ、かき消された。
 旗艦が破壊されたことをシミュレーターが感知し、すべての艦の動きがピタリと停止する。『試合終了──勝者、ヴィクトール・リュディガー・ビッテンフェルト』の文字が中空に浮かんだ。

『ワッ』と、勝者となった者の背後から歓声が上がった。
「やったぞ!」
「よくやった、ビッテンフェルト!」
「ビッテンフェルトが初勝利を飾ったぞー!」
 まだ何が起きたか把握しきれていない様子で茫然と佇む当の勝利者を、彼の友人たちは操作盤から引き離し、横倒しにして胴上げを始めた。
「わ、わ、うわっ!」
 空中に放り上げられ、落下し、ふたたび放り上げられながら、ビッテンフェルトは柄にもなく狼狽したような呻き声をあげた。頭が現実に追いついてくるとともに、父親似の細面の顔に歓喜が湧き出てくる。
「や、やった。ははっ! ついにやった! やってやったぞー!」
 感動の瞬間を味わいながら、『奴め、どれほど悔しい顔をしていることか』とビッテンフェルトは考え、空中に放り上げられ、落下に切り替わるその瞬間、対戦相手のいる側を盗み見た。
 対戦相手の白髪交じりの少女は、こちらに背を向け、とうに出口を目指して歩き去って行くところであった。彼女を見守っていた後輩たちが心配そうに見つめる中、何を言うことも、振り返ることもなく進んでいく。ビッテンフェルトの高度が落ち、友人たちに遮られてオーベルシュタインの姿が見えなくなったタイミングで、扉の開閉音が聞こえた。胴上げから降ろしてもらい、向かい側を見てみると、彼女の姿はもうない。
 チクリ、と胸に何かが刺さる感触をビッテンフェルトは覚えた。今日この日、この勝利の瞬間を、奴が敗北するその瞬間をこそ待ち望んできたはずなのに、どうして心臓が痛むような感覚を覚えるのだろう。
 いまだ若いビッテンフェルトには、その理由にまったく見当がつかなかった。

「ベアテちゃん」
 3D戦術戦略シミュレーション・ルームから出てきたオーベルシュタインを、彼女の友人オノヤマ・トモコが呼び止めた。彼女の方を振り向いたオーベルシュタインの顔は、これといって何の感情も映しておらず、パッと見、いつもとそれほど変わりなかった。
「珍しいね。今日は調子悪かったの?」
「いや。私はいつも通りだ」
「そうなの」
 彼女の答えに相槌を打ちつつ隣を歩き、次の講義の教室を目指して歩いて行く。黙っていると、オーベルシュタインのほうが再び口を開いた。
「あれも、いつまでも同じではないということだ。どのような生まれの者であれ、自己の研鑽に予断なく取り組み、優れた人材たろうとしているということは、帝国にとって良いことだな」
「そうだねー。ベアテちゃんにとっては?」
「私にとっても無論、幸いだ」
「ほんと?」
「ああ。本気でやって、それでも負けた相手のほうが、次に倒す甲斐がある」
「前向きだね」
「普通だろう」
「普通かあ」
『普通』には程遠い友人に反論せず、トモコは小さく笑った。彼女のことだから、ウソをついている訳ではないのだろう。それでも心は理性に従わないもので、やはり負けたことは悔しいのだろう、と、トモコは思っていた。

「先に行っていてくれ」
 分かれ道でふいに立ち止まり、オーベルシュタインがそう言うのを聞き、トモコはキョトンと不思議そうな表情を浮かべた。
「用事を済ませてから行く」
「え、どうしたの?」
「大したことじゃない。すぐ戻る」
「わかった」

 トモコと別れたオーベルシュタインが向かった先は、学校関係者と生徒向けの通信会話室であった。空いた部屋のひとつに入ったオーベルシュタインは、ある人物へ発信をかけた。相手が出るかどうかの確信はなかったが、ほどなくして通信が確立し、通信相手が通話を受理したことがわかった。
 ディスプレイに、豪奢な金髪をたたえ、世にも麗しい美貌の青年の顔が現れた。
『ベアテ。珍しいな、こんな時間に。どうした?』
「ご多用のところ、お呼び立てしてしまい申し訳ございません、陛下」
『“アレク兄様”』
「アレク兄様」
『よろしい。して、どうしたのだ』
「……今日、ビッテンフェルトに、戦術戦略シミュレーションの試合で負けました」
『ほう、ヴィクトールの奴にか? あいつめ、猛特訓を始めたらしいとは聞いていたが、ベアテに勝つとは随分と腕を上げたな』
「……そうですね」
『ははっ、なんだ? 悔しいのか、ベアテ』
「…………」
『よしよし、わかった。意地の悪いことを言って悪かったな。そう悲しそうな顔をしないでくれ』
「……ご多用を承知の上で、アレク兄様に指導をお願いしたく存じます」
『うむ。他ならぬ可愛い妹の頼みだ、よろこんで引き受けよう。……ヴィクトールを負かせることにはなるが。もちろん、あやつが頼んでくるなら私は断らないがね』
「ありがとうございます」
『なんの』
 アレクサンデルが通信画面越しに無邪気な微笑みを浮かべると、被写体の比類なき美貌ゆえにか、安価な通信機のディスプレイが1枚の絵画のように思われた。その後、二言三言、具体的な日時を決めるべく会話を交わす。
 約束を取り付けたのち、アレクサンデルが不意に神妙な顔をし、口を開いた。
『ときに、ベアテ』
「は。なんでございましょう、陛……アレク兄様」
『明日、どうやら、市街で大きな祭りがあるらしい。よければ明日の昼、一緒に見物しないか? フェリックスも一緒だ』
「…………明日の昼は、授業です。兄様。それに、私の記憶が正しければ、授業があるのは士官学校とて同じことではございませんか?」
『なんだ、知らぬのかベアテ。授業はサボるためにある』
「初耳ですし、同意しかねます」
『お前は、相変わらず考えが堅いな。娘だからといって、何から何まで父親の真似をする必要などないのだぞ。たまの逸脱、オーベルシュタイン(父)とて許してくれよう。な? どうだ?』
「お断りします」
『む……。いいのか? 稽古をつけてやらんぞ』
「分かりました。諦めましょう」
『少しは食い下がらんか! わかった。来なくとも稽古をつけるので、予定通り稽古には来るように』
「はい」
『私を行かせるのは良いのか?』
「良くはありません」
『父君に『なぜ止めなかった』と叱られるのではないか? どうだ。監視役としてついてくれば……』
「父上は、できないことは始めから期待なさいませんので、そのような理由でお叱りになりません。兄様を止めることは私には不可能です」
『なかなかに思い切りのいい解釈だ』
「恐縮です」
『……では、ヴィクトールを誘うか』
「それは、私が阻止します。できることですので」
『むぐっ……。……よかろう。今日のところは引き下がるとしよう』
「ご寛恕いたみいります」
『……昔のお前はもっとかわいらしかったのに、私は寂しいぞ、ベアテ。どんどん父君そっくりの話し方をするようになっていくではないか』
「恐縮です」
『…………では、稽古のときにな。みっちり鍛えてやるので、心してかかれよ?』
「よろしくお願いいたします」
 オーベルシュタインが画面に向かって一礼し、通信を切った。至尊の冠を戴く青年の姿が消えたのを確認したのち、講義に出席するべく、少女は通信室を後にした。

「ああああああ!!! ま、た……負、け、た……」

 ガクン、と、オレンジ色の髪の少年が手をついて床に項垂れる。戦術戦略シミュレーターのディスプレイを挟んだ向こう側では、白髪交じりの髪の少女が無表情のまま静かに立っていた。2人の間の三次元ディスプレイの中では、少女の勝利を示す表示が踊っている。
「なぜだ。なぜだ……! オーベルシュタイン、きさま……以前と、戦い方がまったく違っているではないかっ!!」
「負ける戦術を再び使う方がどうかしている。一度負けたのだから、変えるに決まっているだろう」
「だが、あれから1週間も経っておらんのだぞ!? これほど早く、そうそう戦い方が変わるものか! ……一体、何をしたのだ!?」
「……秘密の特訓をしただけだ」
「秘密の特訓だと!? 何をしたというのだ」
「秘密だ」
 教えろ、と喚くビッテンフェルトを無視し、オーベルシュタインは颯爽と踵を返して出口に向かった。背後では、彼女の崇拝者たちが尊敬の眼差しを向けつつ、モーゼが海を割るように道をあけていた。
 シミュレータールームを出た彼女を迎えたのは、共和政府領に系譜をもつ友人である。
「ベアテちゃん、白星奪還おめでとー」
「ありがとう」
「ご機嫌だね」
「そうかな」
「お祝いに放課後、スイーツ食べに行く?」
「行く」
「やった」
 およそ少女らしくない話し方をしつつも少女らしい微笑みを浮かべ、オーベルシュタインは彼女の友人と連れだって去って行った。

 祭りの当日、娘の連絡を受けた軍務尚書の指示で人員が派遣されたが、お転婆な少年皇帝のサボタージュを阻止するに至らず、彼と、彼の親友は、市井の人々に混ざって無事に祭りを楽しんだそうな。