私に愛をおしえて
その3

 ビッテンフェルトが目を覚ますと、見慣れない寝室が目に入った。床に寝かせられているようだったが、頭の下には固いクッションのようなものが敷かれている。
「……ああ、よかった。目が覚めたのだな」
 頭上から、見慣れたオーベルシュタインの顔が見下ろしている。その顔には、無表情との極めて微小な違いではあるが、ほっとしたようにゆるんだ様子が浮かんでいた。
 彼に膝枕をされているのだ、と、ビッテンフェルトがようやく気づく。
「ん、お、オーベルシュタイン……? おれは……」
 どうした、と尋ねようとして、彼は直前の記憶に思い至った。ろくに手当もせずに動き回っていたせいだろうか、誘拐されたときに殴られた傷口が開き、大量に出血したのである。
 後頭部に手をやってみると、頭にぐるりと包帯がきれいに巻かれ、手当が済んでいるとわかった。
「これは、お前が?」
「ああ」
「すまん。恩に着る」
「かまわない。運良く、手当に使える品を見つけられた」
 ビッテンフェルトは辺りを見回した。その寝室は、ゆらめく燭台の炎の明かりに照らされていた。壁には、かわいらしい壁紙が貼られている。どうやら『こどもべや』らしい、とわかった。
「ここは?」
「二階の部屋だ」
「んん、そうか。手間をかけた。卿の力でおれを運ぶのは、大変だったろう」
 そう言って、ビッテンフェルトは起き上がろうとした。すると、オーベルシュタインの手が制止し、彼を元通り寝かせる。
「まだ寝ていろ」
「もう平気だ」
「傷口が開いたばかりだろう。まだ安静にしておけ」
「しかし、敵がいるかもしれんのだろう」
「我々の他には誰もいない。卿が伏せっている間に、手当に使えるものを求めて屋敷中を見て回った」
「ん、そうか。居たのはあの偽物だけか」
 ふう、と目をつぶって溜め息をつき、ビッテンフェルトは体から力を抜いた。彼はホッとしていた。艦隊を率いての戦闘ならともかく、数と能力が不明の敵と包丁で戦うなど、いくら戦闘好きでも避けたいところである。
 すると、オーベルシュタインの手がビッテンフェルトの頭を優しくなでた。ビッテンフェルトは少なからず面食らい、激しく両目を瞬かせながら相手を見上げた。
「オーベルシュタイン?」
 彼は、オーベルシュタインと目を合わせた。彼の両目を視認したその瞬間、全身が恐怖に総毛立つ。なぜかは分からない。一見、オーベルシュタインは普段と何も変わりない。だが、ビッテンフェルトの本能は叫んでいる。『逃げろ』と。
 心臓がバクバクと稼働する。しかし、彼の脳味噌は事態に追いついていない。
(『逃げろ』? なぜ? こいつに害意はない。現に、こうして手当だってされている)
 困惑する彼は、いまだ行動を決定しきれず停滞する。鳶色の瞳が素早く動き、オーベルシュタインを隅から隅まで検分するが、本能が警告する理由をいまだ捉えられない。
 オーベルシュタインがまた、優しくビッテンフェルトを撫でる。その目元が、笑みを形作る。
「運のいいことに、水道もまだ生きていた。一階には食料もある。助けがくるまで保つだろう。それまで安静に」
 オーベルシュタインの言葉は、彼にしては優しい。その提案はきわめて尤もであり、けして不自然ではない。
 しかしなぜか、たまらなく不気味に聞こえる。なぜ、声の奥底に昏い情念のようなものが感じられるのか。なぜ、みょうに真剣すぎる響きが伴っているのか。なぜ、こんなにも背筋が冷えるのか。
(こいつは、本当にオーベルシュタインか?)
 ふたたび疑念が頭に蘇る。なにひとつ、偽物だと考える確証はない。偽物だとして、オーベルシュタインの双子かクローンでなければ説明のつかない顔だ。
 ビッテンフェルトが再び起き上がろうとする。オーベルシュタインの手がまたも制止しようとしたが、ビッテンフェルトはその手を軽く払った。
「……助けがいつ来るか分からん。我らには通信機もないのだぞ。おれたちの失踪が知れたとして、どうやって居場所を突き止める? 待ってなどいられるか」
「ビッテンフェルト提督……」
 ビッテンフェルトが身を起こす。頭の痛みはさほどなく、立ち上がっても問題ない。
「卿の手当のおかげで、少しはマシになったようだ。裏口はあったか?」
「……いや」
「そうか。なら、出入り口は玄関のみだな。卿は念のため、下で玄関を見張っていてくれ。なにかあったら大声を出せ」
「……大声は苦手だ」
「なら、とにかく声を出せ! 暇で嫌なら食事を用意してくれ。その間、おれも二階を探す。どこかに必ず、出入りする手段があるはずだ」
 ビッテンフェルトがそう言うと、オーベルシュタインは何か言いたげに口を動かした。しかし、彼は諦めたように口を閉ざし、「わかった」と一言応じた。
「なにが食べたい?」
「食えるものなら何でもいい」
「……では、肉料理を何か作ろう」
「ん、たのむ」
 ビッテンフェルトが笑って頷く。その反応に満足したのか、オーベルシュタインは燭台を取り上げると、大人しくこどもべやを出ていった。うすく開かれたままの扉から、明かりのない通路が覗く。燭台の光が遠ざかり、階段を下りる足音が響いた。
「……よし! 鍵を探すぞ」
 ビッテンフェルトは自らに渇を入れた。
      *
 彼はまずこどもべやを出て、すぐ隣の部屋に入った。そこは書斎であった。
 書斎の中には、大きく重厚な木の机がひとつと、本棚がある。埃臭く、掃除されていない。しばらく使用されていないようだった。
 ビッテンフェルトはまず、机を調べた。机の上には、数冊のノートが置かれていた。ノートには、どうやら女性が書いたものであるらしい、とある新興宗教に関する記述が残されている。
『ここの村では、古くからとある大地母神を祀っていた。
 黒い雲のような、山羊のような女性神らしい。
 詳しく見ることは出来ず、彼女の使わす不気味な子山羊のようなものが
 いつも彼女からの祝福を私たちに与えていた。
 しかし、私だけは特別だ。
 私は彼女に寵愛されている。
 私の腹部には、彼女の子が宿っているのだ。
 きっとこの子は私、そして彼女に愛されることだろう。
 否。私よりももっと良い人が現れるかもしれない。
 私の愛した彼女のような人が!
 いあ いあ しゅぶ=にぐらす』
 どこか、狂気的な文面であった。
 ノートの端には、奇妙にねじくれた山羊のような模様が描かれている。
(これは……、たしか、使用人室にあった妙なペンダントと同じ……)
 ビッテンフェルトはゴクリと唾を飲み、ノートをそっと閉じた。
 つづいて、オーベルシュタインの見落とした鍵などがないか、彼は机の引き出しを漁ってみた。しかし、それらしいものは見当たらなかった。
 落胆に肩を落としつつ、ビッテンフェルトは本棚にも目を走らせた。すると、見慣れない文字が並んでいることに気づき、彼は背表紙群に目を奪われた。それは帝国標準語でも同盟語でもない、みたことのない形の文字であった。
「なんだ、この文字は? 古代言語……?」
 ビッテンフェルトには知る由もないことであるが、それらはギリシャ語やラテン語の本であった。
 ふと、そうした正体不明の古代文字にまざり、手書きのノートが挟まっていることにビッテンフェルトは気づいた。彼はそれを取り出し、興味本位でパラパラとめくってみた。
 とても汚い文字で読み取れない。しかし、帝国標準語で書かれてはいる。めくっていくと、一部分だけ読み取れる走り書きがあった。
『ゴルゴロスのボディーワープ
 この呪文によって、使い手は身体の形を変えることが出来る。
 呪文の効果は永続的である。
 この効果は、もう一度呪文をかけなおすまで続く。
 呪文をかけることが出来る対象は自分のみである。』
(呪文、だと? 何を馬鹿な)
 ビッテンフェルトは鼻で笑い、くだらないことの書かれた汚いノートを本棚へ戻した。ここに元々住んでいた貴族は、相当あたまがおかしかったらしい。
 そう考えつつも、彼には嫌な予感がよぎっていた。
(もしもこれが本物だとしたら、誰かとそっくり同じ姿になることも可能なのか? たとえば、別の誰かが、オーベルシュタインと同じ姿に……)
 ぞくり、と背筋に悪寒が走る。彼はぶるぶると頭を振った。
(おとぎ話でもあるまいし)
 ビッテンフェルトは気を取り直して書斎の探索を続けた。めぼしい物がなかったので、彼は通路に出て、隣の部屋の探索にとりかかることにした。

つづく