パンや保存食の在庫をいくらか平らげ、ラーベナルト夫人が急ぎ用意したスープを口にすると、オーベルシュタインはようやく空腹が収まるのを感じた。満たされるや否や、瞼が重くなり、睡魔で意識が遠のく感覚を覚える。
意識朦朧とする主人に「すぐに寝室へお連れします」と老執事が声をかけ、肩を支えながら席を立たせた。
「……ラーベナルト……」
「は」
「……私の……ことを……誰にも言うな……あと、3日の間は……」
「承知しました」
今にも倒れそうな主人がやっとで口にした命令を正確に聞き取り、老執事は粛々と応じた。しかし、3日の内に何が起きるのだろう、という、一抹の不安は拭い切れずにいた。
その翌日も、オーベルシュタインはいつもよりかなり多く食べた。おおむね五食分ほど用意すれば満足するようであった。食べ終わると、気を失うようにまた眠りに落ちた。目を覚ますのは激しい飢えに苛まれた時であるようで、眠りから覚めるたびに彼は空腹を感じていた。
主人が眠りに落ちると、その隙に、執事夫妻は食材の買い付けに走り、馴染みの業者にも『大至急』と言い添えて発注をかけた。それでやっと、突然旺盛になった彼の食欲を満たせそうであった。
主人の要求を満たすことを最優先に忙しく働きつつ、執事夫妻は少なからぬ不安を覚えていた。長期間、まともな食事もとれない生活を強いられていたに違いないとはいえ、人間の食事量がこうも変化するものだろうか?
しかし、『3日の間は主人の不調を外に漏らしてはならない』と厳命されている。3日を過ぎたら、すぐに医者を呼ぼう、と夫妻は考えていた。
そして、3日目が訪れた。
3日目の夕食は、突然、今度は食欲が引いたらしく、山のように用意された食事を彼は少しも口にしなかった。せっかく用意してくれたのにすまない、と謝罪する主人を、不安いっぱいの顔で執事は見つめた。
温かい紅茶を1杯飲んだ後、オーベルシュタインは急ぎ足で寝室に戻った。ゆとりのある仕立ての室内着を着るようにしていたが、そろそろ、意識すれば傍目にもわかる大きさに腹が膨らんできていた。
1人になりホッとしたのも束の間、ズキン、と鋭い痛みを腹部に感じる。
「…………そろそろか」
オーベルシュタインは寝室の扉に鍵をかけ、奥にある自分のバスルームへ向かった。
どういう姿勢が良いのかも、どういった準備が適切なのかも全く分からない。ずっと夢の中に居たので、現実の自分がどう“出産”していたのかも検討がつかない。とりあえず、空のバスタブに座り、ぬるめのシャワーを浴びて待つことにした。
温かい雨が降り注ぎ、痩せた身体と、異様に膨らんだ腹部が温められる。身体が弛緩したのも束の間、鈍い痛みが断続的に起こり始め、オーベルシュタインは苦痛に呻き始めた。
「うぅ、グ、あ、ぁあ……」
階下の執事夫妻に聞かれぬよう抑えた声がバスルームに響く。オーベルシュタインの眉間に縦皺が幾筋かでき、彼の額に汗の球が浮かんだ。痛みが徐々に強まっていく。
「はーーーー……っ! ……っ、フゥーーーー、」
意識して深く呼吸し、痛みを和らげながら腹に力を込める。中にいる何かが体外へ押し出されていく。
「ううヴぅ、あぁあああ、っ……はーーーーっ、はーーーー」
痛みの合間に息を吸い、押し出すために力を入れ、息を吐く。痛みが増していく。オーベルシュタインは目元が痛みに潤む感覚を覚えた。意識が遠のく。暗くなった気がする。明かりが消えた訳ではなく、自分の視野が働かなくなりつつあるのだ。
ズキン……ズキン……ズキン……。
痛い。痛い。痛い。早く、終わってくれ。
ズルリ、と、下半身からヌメりのある何かが滑り出てくるのを感じる。もうすぐだ。
そのとき、ドンドンドン!!と、寝室の扉が激しく叩かれる音がボンヤリと聞こえてきた。それを聞いて初めて、オーベルシュタインは、自分が、苦痛の叫びを抑えきれなくなっていたことに気付いた。
『旦那様!! どうなさったのですか、旦那様!!』
鍵のかかった扉の向こうから老執事の悲鳴じみた声がする。時間がない。オーベルシュタインは、ありったけの力を腹に込めた。
ズルリ、と何かが滑り落ちる感覚と共に、腹の中の異物感がなくなった。同時に、オーベルシュタインを苛んでいた痛みが消え失せる。息絶え絶えの彼は、バスタブの縁に預けていた頭を持ち上げ、産まれたばかりの『我が子』へ目を向けた。
彼の下半身は、バスタブの底で血溜まりに沈んでいた。こんなに血を流していたのか。生きて戻るつもりではあったが、最期の休暇になってしまうかもしれない。二度も皇帝の命に背くとは、そろそろ大逆罪になりそうだ。
血溜まりの中に、黒い何かが蠢いている。赤く濡れたソレは、多分、触手生物の幼体だと思われた。
「なるほどな」
オーベルシュタインが掠れた声で呟く。人間が見たら、普通は発狂しそうな光景だ。人間の赤ん坊に見せたアレの配慮は、必要に迫られてのものか。
成体と比べると細い触手が、オーベルシュタインの方へウネウネと伸び、彼の身体に絡みついた。おぞましい光景を前に妙に平静であるのは、生きることを私が諦めているせいだろうか。
小さく細い触手は、不思議なことに、母親にすがる赤子の手のように見えた。
視界がボヤけて薄れる。もう二度と目覚めることはないかもしれないな、と、オーベルシュタインは考えた。
何故ここまでしたのだろう。大人しく手術を受け、腹の子など摘出してしまえば、痛みに耐えることも、死ぬこともなかっただろうに。確かに協力するとは言ったが、それも強制力あってのことで、無理矢理に孕まされたようなものだ。まして、異種生物を帝国に誕生させるだなど、リスクを自ら“産み出す”ようなものではないか。
頭の中で別の自分の声がした。決まっている。自らの責任によってではなく、産まれながらにして死ななければならない存在など、認める訳にはいかないからだ。
見るからに人間ではない。だが、人間をどう定義する? 異形だから人間ではなく、死なねばならないと言うのか。ならば、私はなんだ? 視力を持たぬ異形、生体の目を取り去り機械の眼を埋めた化物、だから、死なねばならなくなるのではないのか?
認めない。そんなことは絶対に認められない。それを否定する為だけに、ここまで来たのだ。それを認めれば、これまでのすべてが無意味になってしまう。故に、たとえ死んでも、認める訳にはいかないのだ。
オーベルシュタインは、最期かもしれない力を振り絞り、手を持ち上げ、血潮の中の我が子の“手”に触れた。生暖かい。動いている。生きている。……私亡き後、すぐに死んでしまうかもしれないが……。
「産まれながらにして、死なねばならぬ者など、いない」
そう呟いたのを最後に、オーベルシュタインの意識は途切れた。