触手オベ
その9

 目を開くと、病室と思しき景色がおぼろげに目に入った。もやのかかった室内に、輝く黄金の髪をもつ人間がいる。義眼のピントと、それを受け止めるレセプタの感覚が合ってくると、その人物の白皙の肌と青い瞳、そして、比類なき絶世の美貌を具現した顔が見えてきた。

「なぜ殺してくださらなかった」

 呟いた声は、思っていたより掠れていた。まるで、久方ぶりに声を上げたようだ。いや、『まるで』ではない。本当に久々に声を上げたのだ。

 ラインハルトの顔に、怯えた少年のような表情が浮かぶ。しまった、と、オーベルシュタインは内心で呟いた。このラインハルトは本物だ。本物だとすると、今の発言は甚だ不味い。
 自分への不興や被害といった意味合いではなく、無垢な少年めいた彼の精神を不安定にする、という意味でである。

「……助けが遅れて悪かった」

 絞り出された声には、皇帝たる威厳を保とうという意思が見えたものの、かすかに震えていた。失態だ。私としたことが。
 周りをよく見ると、室内には、ラインハルトだけでなく、諸提督の幾人かが並んでいた。いつもならば、侮蔑と嫌悪に満ちた反論や陰口を叩く彼らでさえ、今は、憐れむような表情を自分に向けている。私に同情などいらん。今こそ、私の態度を非難し、陛下のご気分を少しでも晴らしたらどうだ。そう思って睨んでみるも、誰も、一言も発そうとしない。
 またか。戦場の艦橋上では命知らずの勇猛な戦士になれても、ひとたび戦場を離れると、どうしてこうも臆病者揃いに成り下がってしまうのか。私が伏せっている時くらい、憎まれ役を買ってでる気概がある者は居ないのか。

「……失言でした。命を救って頂いておきながら、大変失礼いたしました。どうかお忘れ下さい」

 いつだったか、部下の口から聞いた台詞を真似てみるも、ラインハルトの表情は通夜のように沈んだままであった。

「よい。気にするな。……卿が居た状況を考えれば、無理からぬことであろう」

 貴方に気にしないで頂きたいのだ。立ち直らせるのに苦労する。そう思ったが、長い監禁生活で鈍った頭では、どうにも上手い言い方が浮かばない。話題を変える方が良いだろう。

「あれから、どのくらい経ちます」
「卿が捕らわれてからなら、ひと月と十日ほどになるか。救助からなら……そろそろ一日経つ」

 はた、と、オーベルシュタインの脳裏にとある考えが浮かんだ。無意識に片手を、自身の腹へと動かす。そこには、このひと月余りの間、慣れ親しんだ異物感があった。

「医者によれば、直ちに命に別状はないそうだが……腹部の内臓が大きく変形しているそうだ。破損はないが、念の為、意識が戻り次第、移植手術を行いたいとのことだ」
「お待ちください」

 とっさに、病床のオーベルシュタインが応じた。なぜそんな事を言ったのか、彼自身にも未だ理解はできていなかった。

「……小官は……小官には、自分が、手術に耐え得るようには思えません。施術の前に、自宅へ一度帰らせて頂きたい」
「なんだと?」
「手術を受ければ死ぬやもしれません。せっかく救って頂いた命です。無論、このままでいる訳にも参りませんが、手術を受けるにしろ、その前に……家人に別れを」

 もう少しマシな言い訳は浮かばなかったのか、と、オーベルシュタインは自身の台詞に辟易したが、さいわい、ラインハルトを納得させるには十分だった。

「……わかった。時間は、どれだけ欲しい」
「1週間ほど」
「よかろう。……卿が休暇をとるのは、これが初めてだな。最期の休暇にならぬようにせよ」
「は」

 それから数刻後、『変形した内臓』を体内に持ったままのオーベルシュタインは、屋敷まで無事に送り届けられた。
 自宅に戻る直前、オーベルシュタインは車内で私邸へヴィジホンをかけた。生きた主人の顔を見て、目を輝かせる老執事の映像が映る。オーベルシュタインは、間もなく帰宅する旨と、ひどく空腹を感じるので多めに食事を用意してほしい旨を伝えた。
 到着後、オーベルシュタインは夕食の前に湯浴みを済ませた。鏡を見ると、やはり、痩せた自分の身体のうち腹部だけが異様に膨らんでいるように思える。さいわい、まだ服で隠れる程度の違いではあった。
 着替えて食堂に行くと、美味しそうな温かい料理が所狭しと食卓に並べられ、その横で、ラーベナルトが嬉しそうに待っていた。
 席についたオーベルシュタインは執事からナプキンを受け取り、早速、手近な料理を口に運んだ。人の記憶などアテにならないな、と、咀嚼して味わいながらオーベルシュタインは考えた。幼い頃から食べてきた、執事夫妻の用意する料理は、夢の中で食べたものよりずっと美味しかった。
 黙々と料理を口に運び続ける主人を、最初、ラーベナルトは微笑みながら眺めていた。だが、しばらくして、食卓の料理が空になってくると、老執事は違和感を感じ始めた。

 おかしい。食の細いパウル坊ちゃんが、こんなに召し上がるだなんて。

 表情には出していなかったが、同じ違和感を彼自身も覚え始めていた。料理は美味しい。だが、まるで……飲み込むや否や、飲み込んだものを胃の中で掠め取られているかのように全く腹が膨れず、飢えが収まる気配もないのだ。
 やがて、食卓の皿がすっかり空になってしまい、屑ひとつ残さず綺麗になってしまったので、ラーベナルトは目を剥いた。多めに用意しろとの命令通り、普段の主人ならば三度の夕食を賄えるほど多く用意していたはずなのに……。

「……すまない、ラーベナルト。缶詰めでも、パンでもいい。何か、食べられる物を貰えないか。おかしいのは自分でも分かっているのだが、空腹で仕方がない……」

 そう苦しげに告げる主人は、これだけ食べたにも関わらず、青ざめ、どこか、先程より痩せたようにすら見え、本当に飢えを感じている様子である。ラーベナルトは血相を変え、あわてて台所へ走っていった。夫人を呼ぶ、悲鳴じみた声が聞こえる。
 オーベルシュタインは、自分の食事をすっかり平らげた犯人がいるに違いない、膨らんだ腹部を軽く撫でた。随分と食い意地がはっている。

「お手柔らかに願いたい。……これでは、共倒れだ」

 一人呟いた彼の言葉を知ってか知らずか、その後、強い空腹感は少しだけ収まった。